摂津、河内、大和、近江のわずか12人の墳墓にのみ使われた阿蘇ピンク石。
2004年にこの特殊な阿蘇凝灰岩の産地である熊本県宇土の港から、古代そのままに人力の古代船で大阪まで、この石を運ぶ実験が行われ、古代のルートどおり、有明海を出て、東シナ海を北上して松浦から那の津、穴門から瀬戸内に入り、安芸、牛窓を経て住之江に至るコースでこの阿蘇の「赤い火の石」は無事、二ヶ月の期日で到着した。
阿蘇ピンク石と呼ばれるが、阿蘇が9万年前に噴火したおりの溶岩流が氷川河口の宇土、芦北、八代の有明沿岸から海をまたいだ島原半島南部にまで到達し、海水によって急速に冷却され、さまざまな鉱物を偶然溶かし込んだためにできあがった希有な岩石で、掘り出されたときには真っ赤な色をしており、やがて乾燥するとピンク色に落ち着く。
不思議なのは、この貴重な石を使った石棺は、「ある特定の時期の、ある特定の一族の墳墓にのみ使用され」たことだ。
その氏族とは倭の五王のあとを引き継いだ継体大王とその子孫、および彼らを補佐した氏族である。
石棺には様々な形式がある。
そしてそこには、王族、氏族の系譜がそのままあらわれているようである。
阿蘇ピンクに限らず、たとえば二上山ピンク石を使う葛城氏に関わるはずの大王家もあれば、兵庫の竜山石を使う氏族、あるいは同じ宇土の石でも灰色の阿蘇凝灰岩を使う氏族もある。
また九州式家型石棺、あるいは長持ち型石棺、舟形石棺なども、使われた墳墓によってある種の「王家の区別」があったのではないかという説がある。
阿蘇ピンク石は、実に不思議な話だが、継体王朝がとぎれ、欽明、敏達を経て60年後に復活する。その墓は推古女帝と竹田皇子の墳墓であった方墳の、二つの石棺のうち、竹田皇子のものと推定されるものに使われた。そしてさらに不思議なのは、竹田の次の皇位継承者だった聖徳太子が建立した大阪四天王寺建立のさいに阿蘇ピンク製の、石棺の一部底辺と見られる巨大な石版として出現した記事がある。
現在も、四天王寺にこの石版はむきだしで展示してある。
四天王寺は聖徳太子が、物部守屋の霊を慰めるため、守屋の本拠地・カササギ森ノ宮から移転させて仏教形式で霊を封じ込めたところであるといわれている。となると継体大王擁立の時、物部氏が中臣氏や大伴氏とともに率先していたこととなにか関係するように見える。
このとき、雄略によって滅ぼされたはずの葛城氏の残党はまだ大和にその勢力を残していたと見られ、継体が長く大和に入れなかった理由は、かつての、おそらく大王家だった葛城一族によって阻まれており、他の勢力は応神の河内王朝の流れから分かれたふたつの王統のうち、葛城ではない、いずれかをもちあげて継体を擁立したのではないかと思われる。
そしてそのとき近江の大氏族であった息長氏か和迩氏の持っていた伝承を継体にくっつけて引っ張り出したと考える学説もある。
このとき近江でもっとも勢力があったのは息長氏であった。和迩氏はすでに衰弱しており、おそらく和迩氏と反対側にいた息長氏がとってかわり、和迩の始祖伝説を自分たちのものとして取り込み、応神とはほとんど無縁の継体を擁立したとも考えられる。
火の芦北国造の子供が百済と非常にえにしがあった。あるいは神功皇后は息長氏と葛城氏と新羅の王子アメノヒボコの血筋から突然生まれてくる。ここに蘇我氏の陰がほのかに見えてくる。
磐井の乱以降、急速に衰退する大伴氏、それ以前にすいたいが始まる葛城氏、さらに火の君一族の発展と天智天皇・・・さまざまな謎がすこしずつ開かれてゆく気がしてくるではないか。
参考文献『大王家の柩 継体と推古をつなぐ謎』板橋旺爾 海鳥社 2007年
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kawakatu
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今、私はやや酔ってはおりますが、もしあなたのサイトがあるならば、すぐにもとんでいけるでしょうに。
kawakatu
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kawakatu
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