続日本紀巻第四に四十三代元明女帝が和同元年十月十一日(708)土師氏の本居であった

「大和菅原の地に平城宮を営むに当たり、造平城宮司に勅すらく、若し彼のところに墳隴の発き掘らるるもの
あらば見るに随い即に埋め斂めて露し棄てしむること勿れ。普に祭ライを加えて以て幽魂を慰めよと。」
http://www3.ocn.ne.jp/~x484kok8/izumohu.html

土師氏
天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている。古墳を作ったり葬送儀礼にも携わった。渡来系とする説もある。

奈良の古代豪族だった土師氏は土木技術に長じ、4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれ、古墳時代の中期を代表する古墳群、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B8%AB%E6%B0%8F

土師氏は野見宿祢を祖先とする氏族で、野見宿祢については、「日本書紀」垂仁7年7月7日条にその伝承が見える。それによると、大和の当麻邑に力自慢の当麻蹶速という人物がおり、天皇は出雲国から野見宿祢を召し、当麻蹶速と相撲を取らせた。野見宿祢は当麻蹶速を殺して、その結果、天皇は当麻蹶速の土地を野見宿祢に与えた。そして、野見宿祢はそのままそこに留まって、天皇に仕えた、とある。野見宿祢の「野見」は、石材を加工する際に使われている道具である「ノミ」と関連があるとみられており、野見宿祢が石材と深くかかわっていることが分かる。この伝承は、石材を供給する二上山の支配権が、在地の当麻氏の手から、野見宿祢に移ったことを示唆する。
やがて土師氏は、桓武天皇にカバネを与えられ、大江氏・菅原氏・秋篠氏に分かれていった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B8%AB%E6%B0%8F



2. 古墳と土師氏

古市古墳群の中でも、修羅の出土した三ツ塚古墳を含めた道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれている。全国的にも有名な古代豪族の「土師氏」が本拠地としていた所であるため、その名がついた。土師氏は土木技術に長じ、古墳造営や葬送儀礼にかかわった氏族である。
土師氏は野見宿祢を祖先とする氏族である。野見宿祢については、「日本書紀」垂仁7年7月7日条にその伝承がみえる。それによると、大和の当麻邑に力自慢の当麻蹶速という人物がおり、天皇は出雲国から野見宿祢を召し、当麻蹶速と相撲を取らせた。野見宿祢は当麻蹶速を殺して、その結果、天皇は当麻蹶速の土地を野見宿祢に与えた。そして、野見宿祢はそのままそこに留まって、天皇に仕えた。
この伝承には7月7日の日付がかけられているが、後に7月7日は「相撲節会」が行われる日とされている。どうも後の時代になってからそれにひっかけた感があるため、この伝承の全てが真実であるとは思われない。

では、この伝承の中で見ておかなければならない点はどこかといえば、当麻の地は二上山の東山麓にあり、二上山といえばそこから採取される石材が、考古学でも注目されていることである。二上山産出のサヌカイトは旧石器時代から石器に使用されており、古墳時代には噴火によってできた凝灰岩が石棺に使われている。

野見宿祢の「野見」は、石材を加工する際に使われている道具である「ノミ」と関連があるとみられており、野見宿祢が石材と深くかかわっていることが分かる。この伝承は、石材を供給する二上山の支配権が、在地の当麻氏の手から、野見宿祢に移ったことを示唆している。

野見宿祢に関する2つ目の伝承として「日本書紀」垂仁32年7月6日条がある。垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命が亡くなった。それまで垂仁天皇は、古墳に生きた人を埋める殉死を禁止していた為、群臣にその葬儀をいかにするかを相談したところ、野見宿祢が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、いろんな形をした埴輪を造らせ、それを生きた人のかわりに埋めることを天皇に奏上した。天皇はこれを非常に喜び、その 功績を称えて、「土師」の姓を野見宿祢に与えた。

この伝承も、最初にあげた伝承と同様に、事実とは違う点もある。埴輪はまず、円筒埴輪が定着してから、人物や動物を模した形象埴輪がでてくるのであって、しかもそれは5世紀中頃になってからである。この伝承のように、形象埴輪を埴輪の起源とすることには、無理がある。

しかしこの伝承から、土師氏の祖先が野見宿祢とされていることと、土師氏が埴輪の製作にあたっていたことが分かる。また、天皇の喪葬をつかさどるのは、この縁であることが分かる。

「日本書紀」の推古11年2月4日条に、聖徳太子の弟である来目皇子が今の博多で亡くなり、その葬儀を今の山口県で行ったとある。この時、土師連猪手を大和から派遣して、葬儀を執行させたとある。このことから、土師氏に葬送儀礼、葬儀の執行者としての側面も、後の時代にはつけ加わっていることが分かる。

このように「日本書紀」から、土師氏は古墳造り、埴輪の生産、葬儀の執行と、葬礼全体にかかわってきた氏族であることが分かる。

修羅の出土地は、こうした土師氏が活躍した中心地である。修羅は、土師氏によって古墳造りのために使われた可能性が大きい。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/6425/2-2.html