「おなり」は「お・なり」
なりとは実がなること。
中山太郎はおなり・うなりは同根で、農業の穀物神の「身代わり」であると書いている。
それは穀物神・食物神は収穫されることによって「命を奪われる」のであるから、それに代わる生け贄を捧げることで神の怒りを鎮める意味があったのだと言うのである。
『人身御供の資料としての「おなり女」伝説』中山太郎 1925

おなりもうなりもお田植え祭りの裏祭事であろう。現在、こうした生け贄を伴った裏祭事は見られないが、表の滑稽で明るい仕草を伴うお田植え祭りなら全国に氾濫している。
主として大人気なのは男女の交合を表す仕草で、お田植え祭りならずとも宮崎県高千穂神社の夜かぐらでもこうした仕草は聴衆の笑いを誘って大受けする。
しかし男女の仕草はそのまま子孫繁栄に直結するわけで、その後に出産を控えることになり、裏のシャーマニズムではむしろこれは忌み事になる。

神は人々の繁栄を喜ばぬものである。
神が好むのは死と血であった。
なぜならば上記のように災害は羅ごうとも呼ばれ、まさしく天災こそが、自然の摂理・驚異こそが畏れるべき神そのものだったからである。

だからこそ食物神である大月姫は死して体から食物を生じさせる。食物、動物、植物のすべては生命を失ってこそ人口に入るのである。仏教が業と名付け、キリスト教が原罪と呼ぶ人間が生きるための摂理。それこそが神の犠牲の上になりたっている。ゆえに代償は大きなものとなる。
選ばれた者は死を以て災いを防ぐことが期待された。

早乙女の赤いたすきは死に装束だったのであろうか?いや、うなりもおなりも装束は純白。しかも顔を隠している。白とはなにか?
南方の葬式ではたいがいの国が白い衣を着用する。今のように黒い喪服を着るようになった日本は西洋的文化を受け入れすぎたのかも知れない。黒紋付きはおめでたで着るものであった。