人身御供=ひとみごくう 言い換えると建築史などでも言われる「人柱」。古墳の殉教なども範疇に。乙橘姫の海中身投げ行為も同じ。

供犠=くぎ・きょうぎ  言い換えると「いけにえ」。当初世界的にそなえものは人間。その後獣、やがて獣肉、最終的には人型、人形、くぐつへと変遷する。

明治の民俗学、人類学がこれらを話題にし始めるきっかけとなった最大の発掘は皇居。
大正14年(東京日々新聞)6月24日

・・・「宮城二重櫓の地下から立姿の四個の「人柱」現はる」
「大震災の改修工事中に意外の実在  頭や肩に古銭を付けて一間隔きに」
「宮内省で桐の箱に安置」

大正12年の関東大震災で倒壊した皇居の二重櫓(やぐら)の改修中に、工事人のツルハシに人骨が当たった。「こは如何に、彫刻そのもののやうな人骨が頭、胴、手足全部そのままで両手は組み合わせたかの如く直立してゐるので、流石(さすが)の人夫も腰を抜かさんばかりに驚愕し」

以上『東京日々新聞記事』から抜粋。

皇居御苑は1600年代に伊達政宗によって建てられた江戸城本丸後にあとから建てられたのであるから、この人柱は実際には本丸のためのものかも知れないが、なにしろおかみのお住まいからそういうものが出たということで、噂は以前からあったものの、実際にそうなると大事件になった。
結局遺体は16体を数えた。
発掘調査を宮内省から依頼されたのは東京帝大の黒板勝美である。
黒板は遺体を「殉難者」と呼び、築城の功労者としたうえで、歯から判断し年齢を「壮年」とした。また一緒に土器破片も数点回収してそれらが死者の追善供養のためのものと断定。すなわち「人柱」ではなく「殉教者」としたのである。
これによって宮内省は公開調査を一切切り上げる。
黒板は元々宮内省と通じた人物であったと六車由実は書いている。

しかし喜田定吉を始めとする学者やマスコミ、社会はこれを捨て置かなかった。