吉弥侯部
きみこべ
蝦夷に非常に多い氏姓。
滋賀県甲賀郡(こうかぐん)信楽町(しがらきちょう)玉桂寺(ぎょくけいじ)阿弥陀如来像内から発見された「交名帳(きょうみょうちょう)」記載の1500人あまりの平仮名の人名の中で、「エソ」と書かれた裏表紙の記載に蝦夷=えみし=毛人総数370人中最も多い15人の氏姓。
きみこのさたむね
きみこのすえみち
きみこのさたみつ
きみこのとしつね
きみこのつねさね など
表記は公子、君子、吉美侯、吉弥侯など。
『続日本紀』天平宝字元年(757)三月、君子を吉弥侯部に改字させたと記事がある。
その後の居住記録 陸奥、出羽、常陸、相模、下野、遠江に史料あり。
凡例1 正倉院御物中の布切れに墨書で 「常陸国那賀郡吉田郷戸主 君子部忍麿の戸(家人である)君子部眞石 調布壱端(1反)」(天平勝宝4年・752)
調とは税のこと。眞石が租税を納めていたということはすでに国民として認められたことになる。
凡例2 『類聚国史』巻190 弘仁13年(822)9月、常陸国からの報告 俘囚・吉弥侯部小槻麻呂曰く「我ら朝下に帰して20年、皇朝になじみ、活計を得るにあたり、編戸人となりて課役に従いたし」との申し出が認められた。
凡例3 同書 天長元年(824)10月 常陸国俘囚公子部代麻呂等21人課役に従うとの申し出あり。
同書によれば各地から各地へ、吉弥侯部姓の者の移住が頻繁に書きとめられている。移住先は陸奥から土佐へ、播磨から多褹(種子島)へ、因幡から土佐へ、甲斐から駿河へ、伊予から阿波へなどとあり、各地へ移住していったことがわかる。
また叙位を受けた吉弥侯部がいた国に陸奥、出羽、常陸、尾張、越中、摂津、出雲、安芸、肥前、豊前、豊後などが記録にある。
なお『新撰姓氏録』に「上毛野朝臣に同祖」とあるのは吉弥侯部からの主張を認めたものであり、必ずしも事実とは異なる。
以上出典;森浩一『山野河海の列島史』
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