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三毛入野命(ミケイリノミコト) 御毛沼命(ミケヌノミコト)とも。

ウガヤフキアエズと海神の娘であるタマヨリビメの子。
初代天皇・神武天皇の兄。

「古事記および日本書紀本文・第一の一書では三男、日本書紀第二の一書では二男、第四の一書では四男となっており、第三の一書では登場しない。兄弟に五瀬命(彦五瀬命)・稲飯命・若御毛沼命(神武天皇)がいる。」
「宮崎県高千穂町の伝承では、三毛入野命は常世に渡った(すなわち亡くなった)のではなく、兄弟たちからはぐれてしまったので、出発地の高千穂に帰還したのだとしている。高千穂には「鬼八(きはち)」という悪神がいて、人々を苦しめていたので、三毛入野命はこれを退治し高千穂の地を治めたと伝えている。三毛入野命は高千穂神社の祭神であり、その妻子神とあわせて「十社大明神」と称されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%AF%9B%E6%B2%BC%E5%91%BD

「ミケイリノミコトは、御毛沼命(ミケヌノミコト)とも呼ばれる。古事記では、神武天皇となったカムヤマトイハレヒコの兄である。
 高千穂の宮にいたミケイリは、兄弟たちとともに東遷のために出発した。ところが、ミケイリの船は強い風波のために押し流され、本隊と離れてしまい、高千穂に引き返した。
 東遷に出発した後、高千穂地方では、鬼八(きはち)という悪者がいて、あちこち荒らし回って、人々を苦しめていた。ミケイリは高千穂の古都を荒らす鬼八を退治しようと決心した。
 このことを知った鬼八は、ミケイリが引き返す道筋で邪魔を始めた。鬼八は、非常な健脚で山野を走り回ったり、悪霊を呼んで雨を降らせたりする術を使ったので、ミケイリは大変苦心した。
 ミケイリが高千穂に向かって引き返す途中、川が増水して渡れなくなった。ミケイリは浅瀬を探して綱を両岸に張り、無事に渡った。この川が綱の瀬川である。さらに進んで、日之影町にある阿下(あげ)という村に着いた。ここで宿泊、その場所を御泊(おとまり)、また、その地に衣服を脱いで掛けた岩があり、この岩を「座敷のもと」と呼ぶようになった。
 そこから舟の尾という村に出て、この村で食糧を入れた俵を集めて積み上げた。そこは今も俵石といっている。
 鬼八は、先々で大雨を降らせて邪魔を繰り返した。ある日、ミケイリは何とかして雨を止めようと思い、天の神々に祈念した。するとたちまち雨がやみ、日が差し始めた。日之影の名前はこのとき、日の姿が見えたところということで名付けられたという。
 宮水の村でも大雨に遭い、道端の大木の洞穴で休んだ。雨がやんで出発するとき、休息の記念に自然石2個を残した。村人はこの石を神石として祭った、石は今も宮水神社に祭られている。
 大雨に遭ってミケイリのはかまが汚れていたので、村人が洗ってやった。この村は、袴谷(はかまだに)という村になった。この村から上手に波瀬という村がある。ミケイリはここでも休憩した。そのとき、腰掛けた石を腰掛け石という。この石を粗末にすると急に腹痛が起こった。村人はしめ縄を張って波瀬神社の境内に祭った。
 ミケイリは高千穂に帰り、苦心の末、鬼八を退治した。それから高千穂地方は平和な村になった。 」
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/shinwa_densho/033.html

「神代の頃、二上山の乳ヶ岩屋に鬼八(きはち)という悪神が住んでいて、山を下りては、あららぎの里の「鬼ヶ岩屋」に住み、七ヶ池(ななつがいけ)に棲む祖母岳明神の娘、稲穂姫の子、鵜目姫をむりやり妻にしてかくまっていました。
 ある時、三毛入野命(みけぬのみこと)が五ヶ瀬川のほとりにある七ヶ池を通られると水鏡に美しい姫の姿が映っており、命がその姫に問うてみると、「鬼八という者にむりやり連れて来られ悲しんでおります。」と言いました。
 命は鬼八を退治することになり、四十四人の家来を引き連れて乳ヶ岩屋を攻め鬼八を退治されました。
 鬼八の亡骸を埋めましたが、魔性の者のため何度でも息をふきかえしますので体を三つに切って別々に埋めたところ、鬼八は再び蘇ることはできませんでした。ところが早霜が降りて作物に害を与えますので、里人はこれを鬼八のたたりだと思い慰霊祭を行ったところ、霜は遅く降り五穀もよく実ったそうです。
(このお祭りは毎年旧暦の十二月三日、高千穂神社で猪掛(ししかけ)祭として、今も行われています。)
三毛入野命に助けられた鵜目姫は、命の妃になられ八人の御子を産み、子孫代々この地で十社大明神として里人に深く信仰されたということです。」
http://www.takachiho88.net/history/takachiho5.html


「旧暦12月3日のこの日(1月15日)は、同神社で「猪掛祭(ししかけまつり)」が執り行なわれる。この地の狩猟文化との関わりが深く、また夜神楽の原型とも言われるこの祭はぜひ見ておきたかった。
 「その昔、この近くに悪神・鬼八(きはち)が住みついて村人たちを苦しめていることを知った神・ミケヌノミコトがこれを退治した、という「鬼八退治」の伝説がこの地(高千穂神社周辺)にある。
 鬼八の蘇生を絶つため三つに切り分け埋めたのが、この辺りにある3つの「鬼八塚」なのだそうだ。僕は宮司の一行に伴われて、そのうちの一つを訪れた。
 鬼八退治の後も続いた祟り(早霜)を鎮めるため、と伝わる慰霊祭である。注連縄を掛けなおし、イノシシの肉・新米の供え物をして、祈祷。「山の神様でもあるので」と言う宮司さん(実は「クマ探し」の理解者でもある)の計らいで、写真を撮っていた僕も他の氏子に倣い玉串(榊の枝の供え物)を奉納させていただいた。ちょっとウレシイ。
 本殿に戻った後、今度はたくさんの参列者が加わって、「猪掛祭」のメインである「笹振り神楽(ささふりかぐら)」の奉納だ。御神体に向かって、二束の笹の束を両手に持ち、手を振るだけのシンプルな舞い。笛・太鼓の囃子は一般の神楽とほとんど同じようだが、足の動きはないし、笹の振り方も単調。この「笹振り」がより複雑な神楽舞の起源であろうとの説も、なるほど頷ける。宮司さんの後、続いて夜神楽の舞い手たちや氏子たち数人が舞いを奉納した。
 舞い手の前の祭壇には大きなイノシシが供えられていた。丸々1頭、仕留められたままの姿である。鬼八鎮魂のために処女を生贄にした名残ともいうが、狩猟の成果への感謝の意味が込められているのだろう。祭式の後、他の参列者と共に社務所に通され、新米のご飯とイノシシ汁を頂いた。秋の収穫と山の恵みに感謝し、天災を畏れた古の人々の自然に対して謙虚な生き方が垣間見れた気がする。宮司さんは、他の参列者に僕を紹介しながら「山の神を祭る猪掛祭に参られたのだから、きっとクマも見つかるでしょう」と言って下さった。」http://homepage3.nifty.com/muzina-press/kagura/sisikake.htm

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阿蘇では建磐龍命(タケイワタツノミコト。神武の息子で、阿蘇開闢の神と阿蘇氏が伝えている)の馬引きだったはずの鬼八(きはち)だが、高千穂ではなぜか神武の兄である三毛入野命に滅ぼされている。
時代が錯綜してしまっているのはなぜか?

阿蘇の伝承では、鬼八は建磐龍の放った矢を拾っては返していたが、ある時あきあきして、つい矢を足蹴にして返したため、建磐龍の逆鱗に触れて、阿蘇の赤水から祖母山を突き破って矢部を経て高千穂に逃げ込んだことになっており、高千穂神宮の裏側にちゃんと鬼八塚がある。
それが高千穂の伝承では、もっと古い話に変わっている。
建磐龍は阿蘇氏の祖であるという神八井耳命の子供であるから、神武の孫になる。神武の兄である三毛入野命では世代がひとつ遡ってしまう。
阿蘇氏が熊本や諏訪に派遣されたのは8世紀頃のことだと考えられるから、もともと阿蘇~高千穂地方にあった鬼八伝承を阿蘇氏が地元に融和する一策として取り込んだのだと考えてもいいだろう。阿蘇氏が神八井耳を祖にしたのも、もともと熊本の火君が多氏 と神八井耳子孫であるという系譜を名乗っていたからだろう。同じ事を筑紫君も大分君言っていたのだから、阿蘇氏は北部九州一帯を牛耳る必要性からこの伝承を受けいれて行ったのではないか?
しかしながら、急峻な九州山地の向こう側高千穂では、かつての言い伝えに、のちの記紀神話の言い伝えが色濃く入り込み、より天孫色の強い話となった可能性が高い。

いずれにせよ、この伝説は鬼退治譚の原初形質がそのまま残存しており、鵜の目姫=鉱脈、鬼・矢=鉱物氏族、馬を引く=帰順という類型が描かれているのだろう。同時に猪を奉納して鬼八の霊を慰めるという狩猟民への鎮魂も含有される。高千穂からさらに山奥へと入るほどに椎葉、西米良、東米良と平家伝承と焼畑、照葉樹林、そして狩猟文化の残存地帯へと入り込むことになる。高千穂神社は中央が記紀の正統を描き出す作られた聖地としての天孫降臨神話のテーマパークを建設するために彼等、先住民をそこへ追い込むことで成立するはずである。そして椎葉から麓へと降りて行く米良街道沿いには多くの神社と古墳群が存在する。点在する古墳群のすべては在地氏族のものだろうが、持田古墳群や茶臼原古墳群には100㍍前後級の前方後円墳が造営されてもいる。これらは記紀よりもずっと古い河内王朝時代の国衙がいたことを語っている。そして最高峰市房山から西都に向かって急激に下って行く一ツ瀬川の行き着いたところに西都原古墳群を擁する都萬地方がある。しかし、そこは耳川を下って東征したという神武のコースからは南にはずれている。
河内王朝が配下にしたはずの南九州。
そこにもとから大和の記紀神話があったとしたのは、当然、河内王朝より古い天皇家の正統を言いたいがためにほかなるまい。

しかし滅ぼされた側の民衆は政治にあがらうことなく、古い鎮魂と祭祀を自ら継続してきた。高千穂神社の「猪掛け」はいわば滅ぼした側の鎮魂であろうか。



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