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画像は『東国の古墳と古代史』学生社から 奈良国立文化財研究所岩永省三氏作画
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一般に、これまで、御霊信仰は平安時代からと言われてきた。それは主に供犠に関わった人々が、時代的政治的な流れの中で生まれてきたのが平安時代初期に顕著だったという理由が大きかった。

またこれも一般的に、動物犠牲の風習は、やはり中世前後からの遅い時代から始まると信じられてきた。

もちろん動物犠牲と動物供犠はわけて考えられるべきもので、前者が死者への鎮魂を主体とするのに対し。後者は雨乞い、病害虫忌避を主体とする怨霊退散願望といった辟崇観念に始まる。

しかしながら、動物を生贄として殺傷、斬首する行為自体がもっと古くからあったことが考古学的な発掘でわかったことの意義は大きい。

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千葉県佐倉市桜第三工業団地の造成にともなって発掘された大作古墳群の中にある大作31号墳という五世紀頃の小さな古墳から、馬犠牲のための土壙が発掘され、そこには馬の骨と馬具があった。

この馬具の配置・・・特に鉄製轡(くつわ)と馬のあご骨、歯が土壙北側にあったのだが、不思議なことに馬の胴体部分は南向きだったことがわかってきたのである。

胴体の骨だけでは南向きに入れられたかどうかは当初断定できなかったのだが、鞍金具の配置から南向きであったことがほぼ確実になってきたのである。

「鞍はご承知のように前輪と後輪にはそれぞれ鞍を馬につなぐためのベルトを接続させる、しおで(革+妥)というバックルがついています。この土壙からはしおでが二つ出ていますが、数が二つだけの場合は後輪につく場合が多く、その出た位置を検討すると、この鞍は下向きで南の方が前だった可能性が非常に強くなります。」白石太一郎『東国の古墳と古代史』学生社 2007 「東国における牧の出現」

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この犠牲馬は頭部は北側に置かれ、胴体は南側に、頭にそっぽを向いて置かれ、しかも腹を上に裏返し状態だったのである。
31号墳の被葬者は、その規模から見て、大豪族ではないという。
すでに墳丘は削られていたが、その直径は約15㍍の円墳。土器編年から五世紀頃の造営。
古墳の石室施設などはすでになくなっており、周囲に周溝の跡が見つかった。
この周溝の外側で二つの土壙が見つかり、そのうちの一号土壙に馬のアゴと歯が見つかった。
いわゆる「馬の墓」であることが確認された。

頭部を斬首し、北側へ置くのは死者への慰霊の作法だろうか?
銅と頭がそっぽを向くのも同じ意味か?
古墳から見つかったことで、少なくともこの馬犠牲は辟崇ではなく慰霊だと考えてよいだろう。

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この10数年間にこうした馬犠牲の遺跡が、特に古代馬牧のあった地域で顕著に見つかり始めている。
というのは馬牧の多いのは南九州や信州、東国であることから、それらの地域の発掘自体がこれまで遅れていたためだ。すでに五世紀に、馬牧がり、それらの牧の中でも、ぴんぴんした若い馬が犠牲にされていることがわかってきた。
殺してしまうのに、役目の終わった老馬ではなく、調教が終わるか終わらないかという、これから活躍するような若い、いきおいの最盛期の馬がわざわざ選ばれて犠牲、殉教に用いられていた。つまりそのような勢いのいい馬の生命力を死者へ捧げることには再生願望のあったことがうかがわれる。
小氏族・・・おそらく馬に関わった人物で技術者だろうか?

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1999年二月五日付け朝日新聞記事で長野県南部の伊那谷がある飯田市で馬殉葬土壙が見つかったというものがあったことを覚えておられる方がいるだろうか。
この馬の殉教土壙はこれで29例目であることが書いてある。
馬犠牲土壙の発掘は最近の傾向だ。
長野県は「馬なら諏訪の馬」と蘇我氏の時代にも広く知られているが、南部の伊那地方から天竜川沿いは日本でもナンバーワンの被差別民のいた地域でもあった。そこに馬犠牲の例が非常に多い。
牛馬の犠牲、生贄、供犠と馬牧、馬食は大いに関わっているのである。

馬犠牲土壙は身分の高い豪族以上のクラスでは行われていない。地方の小豪族でもなく、馬牧に関わるような小さな一族の主だけに多くあった風習のようである。
しかしながら馬牧管理者と天皇家は非常に深く関わり、乳母の家柄は馬牧管理者が多い。
卑近な例でも推古天皇や持統天皇も馬牧管理者のいた地名を幼名に持つことが知られている。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/40673732.html
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/40446137.html

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殉死、殉葬の面からとらえる方向。
辟崇からの考察。
貴種の乳母が馬牧管理者が多かったという考察。
五世紀からすでに馬が犠牲に使われていたこと。
長野県や熊本や千葉県などの東国で多かったこと。などなど、五世紀当時から発展して行く東国の問題と合わせて、渡来が東へと流れて行き、やがて中世武士団へと変遷して行く流れがよく見えたことだろう。
江戸時代、兵庫県の馬牧の娘が乳母となって将軍がひとり誕生する。春日局。於福である。将軍は三代徳川吉宗。乳母と馬は大いなる渡来技術者たちの出世コースだった。額田部氏しかり。





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