久しぶりにまた白石説。
長野県北部に大室古墳群というさまざまな高句麗型積み石塚古墳群を擁する古墳群があり、ここの上部に合掌型と言われる小さな古墳群が杉林に隠れるように点在する。どうやら時代を経て長野北部には渡来が押し寄せていたらしい。

その合掌型古墳は現在、墳丘が流出し、石室がいずれもむきだしとなっている。
手のひらを合わせたように、石版を人の字に立てかけた状態で、石室がいくつも並んでいる。

この古墳を調査した白石氏は、これらの墳丘が横穴式、ないしは横口式だったと考えている。石室の様式からそうなる。
横穴式や横口式石室の伝播あるいは派生は、九州が最も早い。北部九州の数カ所で、それまで竪穴式だった地域で、あるとき横から入る様式が入っている。
この様式だと、最初に平地に重たい石を並べて石室を作り、その上から盛り土するから、非常に労力がかからない。竪穴式だと、作り上げた墳頂まで重い石材を運び上げねばならないから、たくさんの事故が起きたはずである。しかしこれだと事故は圧倒的に減る。その分、古墳の意匠には工夫する余地も生まれ、大いに古墳は発展する。
これが5世紀前葉のことで、それが大和へ伝わるまでに50年ほどかかっている。考えてみれば、古市の大古墳群もあの巨大な墳頂の上に穴が掘られ、そこへ巨石をおろしているのである。果たして何万人の犠牲者が出たことだろう。それらの古墳土木、制作は東海、東国の尽力でなされたと言われている。蝦夷である。古墳のために異人種が労役させられた。

この横穴方式がはじめて半島に出現するのは、白石氏によれば5世紀初頭の百済であるという。だから九州の横穴方式は百済から来た。あるいは九州の海人族が半島に行き、見てきた結果、まねをしたのだと白石氏は言う。
ここには少し矛盾があって、場合によっては九州の方が早い可能性もある。ここはもう少し検証されるべきだ。

長野の積み石塚に関しては、高句麗に先例がある。だからこれは高句麗様式で、半島北部からの渡海があったとされているようだ。数年前、地元の資料館に聞いたところではそういう話だった。

となると百済様式を持つ渡来のあと(先?)に、高句麗からの渡海が来たことになる。先に高句麗が来たのかも知れないが、どっちにしても、面白いのはここの渡航者たちはその後、仲良く棲み分けを行う。そこが大陸とは違うところ。

しかし、もし先にいた百済系移民を追いかけて高句麗系がやって来たとするならば、そこに棲み分けがあったとは思わない。なぜなら当時の百済は高句麗から攻め立てられていた。それを追いかけてきた高句麗系の人々は、百済あるいは九州系の先住者の合掌型のあった場所の下に割り込んで積み石型墳墓を造っているのである。これは「同居」だったのか「追い立て」だったのかで、随分様子が違ってくる。