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12月7日は太宰府・筑紫野市に近い佐賀県鳥栖市の二つの装飾古墳の、年に一度の公開日であった。
知人の案内の通り、毎年12月の第一日曜に公開される貴重なもの。

鳥栖インターチェンジから「田代公園」交差点を左折してしばらく行くと、まず田代太田古墳がある。
周辺は新興住宅地と工業団地として開発された地域の手前にあり、これ以外にも剣塚古墳などいくつかの6世紀中頃の円墳が集中する地域。田代太田は大正15年発掘。以来ほとんどほったらかし状態だったため、埋蔵物のほとんどが散逸。遺骨も消えている。

石室は5つの屍床を持つ。家族が多かった人物か?
ここの装飾は連続三角紋の様式が、ずいぶん離れた場所にある桂川町の王塚古墳によく似ていて、カラフルに4色の顔料が使われ、明るい色調を持っている。現在はやや退色もしているが、造営当時の色彩はずいぶん死者のもがり屋らしくない色合いだったようだ。はでである。

装飾は王塚と共通するもがり船、馬、楯、連続三角紋、蓮の花のようなロータス紋、円文、そしてこれも王塚と共通する双脚輪状紋などが、奧壁一面にちりばめてある。
馬には人物が騎乗し、尻尾の部分に旗が立てられているのは、王塚と田代の間に存在する五郎山古墳と類似している。筑豊の桂川~筑紫野~鳥栖を通る古墳の類似性が面白い。
鳥栖市田代は北に背振山を配し、南は水納(みのう)山地と筑後川、東に三田川、吉野ヶ里、西に宝満川・太宰府を配す。いわゆる風水に見合った特別な場所である。古くは縄文海進で、筑後川流域の低地は深く海がひろがる良港でもあっただろう。周囲に多くの遺跡を持つ。

筑後川を船で渡れば対岸はもう筑紫君のいた八女、久留米である。

筑紫君と深く血縁関係にあった筑後の火君がいたと言われており、田代太田古墳はこの中の誰かであろうか。地元では百済へ渡った筑後火君の記録を重視し、ここが時代的にも彼の墓であろうと考えられているようだ。

火君と筑紫君は兄弟だと記録がある。兄弟とは婚姻関係であろう。
筑後から菊池川河口の玉名はそう遠くない。これは火中君のことではあるまいか。火中君は菊池川上流の阿蘇凝灰岩によって中央と緊密な関係を一時築いていた。時代は允恭から継体にいたる考古学的激動期にあたる時代の古墳。筑紫君磐井の乱から少したった古墳時代中期後葉~後期前葉の造営。
磐井の息子だった葛子の関係も考えられる。
装飾には、しかし八代火君系が多用した靫がない。ということはやはり火君の中の火中君がふさわしいかも知れない。ただし石室に使用された石材は花崗岩が多い。田代周辺原産だろう。そして石障には近くで産する緑泥片岩が用いられている。近場の石を使っているようだ。

6世紀、大和では雄略のあと、時代は継体へと移行する。しかし一説では継体はすぐに死に、息子の安閑、宣化がこれまたすぐに死んだらしい。そして欽明の血脈が政治を牛耳るようになり、蘇我氏全盛期を迎える。

百済から「人質」として筑後の火君が連れてきたという百済王子の記録がある。高句麗、新羅によって侵略されて行く百済からは、多くの王族が筑紫に逃げ込んだのだろう。允恭~雄略までは百済は筑紫君連合によって保護されたか、あるいはバックアップ、流通があって親しかったのだ。その百済と日本海ルートで継体大王はえにしを深めていく。筑紫君は非常に不満だったはずだ。筑紫と百済の親密外交の歴史は弥生時代にまでさかのぼれる。古いえにしを大和に奪われた格好になり、筑紫君がだまっているはずがなかった。こうして磐井の乱は起きる。

連続三角紋の様式は菊池川流域のチブサンや大坊古墳とよく似たデザインだ。しかしあちらはこれほど色を使っていない。赤、黒、白(黄色あるいは地肌)を基調としている。田代太田はこれに緑色が入り、それはおそらく緑泥片岩をすりつぶした顔料だろう。黒色が炭で描かれ退色してしまったのに、緑色はいまでもあざやかである。施設の保存状態がよいため適度な湿気が表面の劣化を防いでいる。

田代太田の北、ややはなれた薬品団地の中に梅坂公園が作られており、そこにヒャーガンサン古墳が移築されている。ヒャーガンサンとはパンフレットによれば「這う神」とか「灰岩山」とか「拝願山」が語源だとされるが詳細はわかっていない。驚く表現の「ひゃあ!」だという説もある。いずれにせよ、北部九州で、まるで名古屋弁東海方言のように「ヒャー」となるのはなかなか感慨深い。どこかで尾張と言葉の類似がある。「みゃあ」ともなるかどうかはよく知らないが。

推定するにこちらは古墳造営者の土師氏臭い気がする。
土壌が黄色い粘土を多く含む花崗岩が多く、古墳自体、黄色っぽい。太田古墳のあかっぽさとはまた一風違った場所で、北に位置することから、どうも土器製造に関わる氏族らしい。土師とは断定しないが、どこかしら奈良県山辺道で見てきた野見宿禰らしき珠城塚古墳に似ていた。石室の天井が九州に多い高いドームでないのもそっくりである。
もう少し時代が下がれば宅蘇吉志一族と血縁する肥君猪手一族の祖先かも知れない。

ヒャーガンサンの装飾はいたってシンプルで、朝倉~吉井~日田~玖珠~宇佐へと流れる筑後川主流の紅い円文が三つほど描かれるだけで、ほかはこれといって特殊な柄も見えない。これらは枝族ということになるか、あるいは技術者的配下だろうか?

九州の壁画系装飾を持つ氏族はおそらく「君」以下の在地勢力だったと考えられる。中央からやってくる葦北国造や江田船山の氏族は壁画は持っていない。知事クラス、国衙クラスはよそ者であろうから、たいがい装飾は吉備~大和系の直弧紋と石棺を持つようである。しかし在地勢力はあざやかな壁画と独自の造営様式と屍床や石障を持ち、遺骸は屍床にむき出しで安置されるようである。

3世紀の邪馬台国から九州をつなげようとする研究者が一番困るのは、奴国時代の甕棺から装飾のあいだにつながりが見えないことと、漢鏡が3世紀以降出てこないことだ。
漢鏡は卑弥呼の死を契機に、なぜか大和の古墳から大量に出てくる。そして甕棺に変わって出てくるべき石棺が在地氏族の石室から全然出てこない。朱塗りという様式では一致しているものもあるが、ほとんどは一気に屍床、石障、壁画装飾へ移行してしまう。中間がないのである。

これは百済、加耶経由で横口式石室が来るのと同時にそうなったのだと思える。つまり半島南部海岸部の海人族と有明海の海人族の間に知識や風習、伝承、神仙思想、技術、絵画などのやりとりがあり、見てきたデザインを見よう見まねで取り入れていった海人系絵師?のいたためではなかろうか?

大和の流れと、九州の製鉄最新技術の停滞を平行して見たとき、筑紫は半島動乱の影響をまともに受けたのに対し、大和は日本海からの高句麗のちに百済の技術移入が顕著になってゆく。すでに卑弥呼の時代に、大和は出雲を福井、越を押さえ、中継港を持ち、やがて吉備や東海とも手を結んでいく。しかし筑紫には在地勢力との古い共同体しか見られず、広範囲な連合政権の道から外れて行くのである。卑弥呼の死によって中国とのつまがりが薄くなり、中国もまた三国志動乱期へ。それが半島へ飛び火し、九州に多くの貴種が渡来してくるようになる。その中から倭五王たちが頭角を現すのであろう。

三世紀終末、筑紫には邪馬台国連合と呼べる共同組織はない。そして大和にもそれらしき遺跡が現れてこない。つまり、すでに卑弥呼の死で邪馬台国連合は死に体だったとしか思えない。そこには河内王朝はありえても、それ以前の崇神につながる流れはまったく見えてこない。そしてその崇神が伊勢に移築してしまったと書かれたアマテラスの神霊こそが卑弥呼や台与そのものだったとすると、話はすでに三世紀から邪馬台国の滅亡していることを示唆するのである。渡来はそのあとすぐに出現し、古市に巨大な古墳群が現れる。そして一気に蘇我氏の飛鳥時代まで猛然と走り始める。すでに九州の残照はまったく歴史の片隅へと消えて行く。多くの畿内在地勢力も入れ替わりつつ、壬申の乱が終わり天武が没し、藤原氏の担ぎ上げた大王は女帝・持統だった。女帝こそが九州倭国からの中国王朝との正統な関係を暗示している。藤原不比等は卑弥呼からの伝統復活を女帝という傀儡によって全国に提示したのだろう。これではまるで文句の言えない、中国という錦の御旗を振りかざしたとの同じである。誰も文句のつけようがない王家を不比等はアイデアによって生み出そうとしたのだろうか。


画像は上から
田代太田古墳石室装飾
スカイトレッカー氏提供発掘当時の画像
ヒャーガンサン古墳装飾
ヒャーガンサン古墳墳丘外観