先の「その一」に引き続き、白石太一郎氏『東国の古墳と古代史』学生社 2007 から、今度は古墳時代の後期~終末期にかけての関東、特に下毛野(しもつけの)の60㍍クラスの円墳から考察してみたい。

白石氏は後期古墳時代に全国の前方後円墳が急速に終了して行く時期に、関東だけが何十基もの100㍍級前方後円墳を造営できた不思議についてこう語っている。

「今ここで問題にしています一〇〇㍍を越えるような前方後円墳ということになりますと、(全国的には六世紀後半から七世紀初頭頃の100㍍を越える古墳は少なくなるが、終末期には)もっと少なくなるわけです。近畿地方では(中略)全部で18基しかありません。(中略)140㍍以上(中略)が、七基ほどあります。大王墓とおぼしき140㍍以上のを含めても18基しかないということになります。ところが関東地方では(中略)合わせて36基もあるわけです。(中略)ですから、関東地方で60㍍を越える後期の前方後円墳が216基、100㍍以上のものだけでも36基もあるというのは、いかに多いかということがわかると思います。
(中略)(その理由のひとつは)一つはっきりしているのは、ほかの地域とはまったく異なった基準で前方後円墳が造られていたということです。(中略)
 このことは、当時の六世紀から七世紀の初めのヤマト政権にとって、関東地方が非常に重要な地域であったかということを物語っているものにほかならないと思います。」

このあと白石氏は関東と関西を大きく分けていた三関(不破、鈴鹿、愛発あらちの関所)について言及し、「固関(こげん)」という専門用語を持ち出す。

三つの関所は、それぞれ岐阜、伊勢、越後という西日本の外の地域が守っていた。われわれが思うような、内側から守っていたのではないということを述べている。つまり畿内の豪族が東側の世界に出て行って、実力者東国と手を結ぶことを監視していた・・・獅子身中の虫の反乱をこそ畏れて関所を配置したのだと説く。それほどに東国の実力は中央から畏れられていたのである。言い換えれば畿内の政権は東国にこそ守られていたわけである。

実際、もうひとつの重要侵入経路である九州、玄界灘の守護を行う衛士=先のヒナモリ、のちの防人、ミカキモリの役目を負ったのは東国の勢力である。この時点ですでに畿内は東西からの挟撃の恐怖の中にあるはずだ。しかし東国勢力、すなわち旧狗奴国勢力はヤマト政権に協力し、むしろ旧邪馬台国ヤマトを守護してやっていることになる。その外様東国の実力と畿内の反発旗本との合体は、もっと恐れるべきものだった。

大化の改新(乙巳の変)が起きる二ヶ月後、東国にはもう新しい国司が任命され、派遣されていたことはあまり知られていないだろう。この時東国に入った国司がいの一番にやったのは、戸籍の作成と水田調査、そして刀狩りである。まったく豊臣秀吉がずうとのちにやったことと同じことをやっているのである。すなわちこれらはやがて中央で施行される予定の公地公民制度の実験だった。東国は軍事面だけではなく生産面からも重要視されていたのだ。恐れながら同時に骨抜きにしようとした。ちょうどよく似ているのが平将門時代の関東武士と中央貴族の関係である。将門はこうした250年以上の長い上下関係に逆らったわけである。これが大化の改新、藤原政治の基盤になってゆくのだ。

だからこそ関東の北にあって、東北蝦夷とのはざまに位置した常陸が非常に重要な、二回り目の関となったわけである。関東の千葉と東北の入り口の茨城の間には、超すに超されぬ霞ヶ浦、利根川水系が横たわっていた。これが文化の巨大な障壁となり、同時に監視するためのゆとりある城柵となった。鹿島地方に行けばわかることだが、鹿島灘は巨大な砂浜であったところを、那珂国造、茨田部、佐伯部、小子部などが干拓し、今では陸地となっている。そこにあるのは藤原鎌足神社、鹿島神宮、息栖神社である。鎌足という大先祖の霊によって東国は監視されていることになる。

その境目の突端に犬吠埼がある。銚子である。この岬から北の茨城は海上郡、南の千葉も海上郡となっている。同じ「うなかみ」郡だったかつてはひとつの文化圏だったところが、分断される。犬吠埼という隼人族地名だった場所。かつて尾張氏の北上に伴って同伴した隼人いた房総~霞ヶ浦。過去を伝える遺跡は千葉県側にある渡海神社。そして茨城県側には那珂郡に伝わる悲恋の松と海人寒田郎子と那珂の長者の娘の悲恋の別れが残される。別れとはひとつの文化圏が、政治によって分かたれてしまった、そういう意味でもあった。

下毛野にある終末期古墳は栃木県の壬生車塚など壬生町に集中している。さらに埼玉県の行田八幡山古墳などの円墳がこの時期としては異例の60㍍級円墳で、これはヤマトでは天理市塚穴山古墳くらいしかないサイズであり、千葉県大塚姫古墳などと合わせて、下毛野、上毛野に集中する。中でも竜角寺古墳群は律令時代には下総国埴生郡に含まれていた。壬生、埴生という地名に関われた氏族の名前が刻まれた木簡が平城京から出土している。
当時の郡衙だった「大生部直(おおうべのあたい・おおみぶべのあたい)」。
またまた多氏の枝族である。

大生部、生部は飛鳥時代のあと上宮王家の配下として登場している。
上宮王家が亡き蘇我氏の一族として、親元である蘇我入鹿によって滅ぼされたことになっているのはご存じであろう。しかし上宮・山背皇子の父であると書かれた聖徳太子・厩戸皇子そのものの存在が今、問われている。蘇我入鹿たちが当時の王家の忠実な大臣だったことも考古学の発掘からわかってきた。そしてこれはまだ確定はできまいが、蘇我氏はえん罪だった、あるいは蘇我氏こそが豊の王家出身だったという説が、昨今、急浮上してきてもいる。

天武壬申の乱で岐阜の多氏も九州の君たちも大いに活躍したにもかかわらず論功行賞もほとんどなく、九州や信州の知事にとどめられた神八井耳の系譜に連なる古い氏族。聖徳太子(トヨトミミ)の開発部員として東国で干拓と鉱物発掘、治水事業に活躍した氏族。蝦夷をつれて瀬戸内海~九州へゆき、各地で彼等を同化させ、工人に育ててきた氏族。神八井耳と豊の関係者たちがここにも。

「下毛野の終末期大型古墳のあり方は、国造制から評制へという七世紀におけるヤマト王権の地方支配システムの変遷過程を考古学の立場から明らかにするうえにきわめて重要な資料となるものである。」(白石)


河内王朝の時代の5世紀中盤頃、東国は前方後方墳に象徴される狗奴国国家だったと白石は言う。そして江上波男氏の説いた騎馬民族渡来説のうち、来たのは渡来武力集団ではなく、大王クラス・・・とくに高句麗が南下し始めた4世紀以降、半島から押し出されて行く南部の百済、加耶の王族であったと考える。それは大古墳から出土する馬具を詳細に分析した小林行雄氏の「大古墳から出る馬具は支配者クラスの一級品ばかり」「ゆえに来たのは百済の大王クラス」という考古学的考察から派生している。

しかしながら、ヤマトにあったはずの旧邪馬台国の遺跡となるべきものがいまだに見つかっていないのはなぜだろうか?かわかつは、白石氏のヤマトが邪馬台国だったという仮説の中で、これだけは矛盾する部分ではないかと感じた。唐古鍵、纒向という弥生時代の遺跡が消え去った跡、謎の四世紀を経て、歴史の中心には忽然として応神天皇を始祖とする倭五王が出現する。邪馬台国と倭五王にどのようなつながりがあったのかは、まったく白石氏は触れていない。四世紀を謎のママにおきざりにし、どうして邪馬台国が残存した、継続したと言えるだろう?

東国繁栄の基礎となった東海の雄・尾張氏はなぜその後北上したのか?
かつぎあげた継体の死後、ピンク石は消え、ヤマトは蘇我氏のものとなった。
尾張氏の住んだ愛知県。その一の宮だったのは真清田神社だったという不思議。熱田神宮にはなぜ皇室にあるべき三種の神器のひとつ草薙の剱があるのか。
倭五王はなぜ消えてしまったのか?本当に継体は彼等の子孫なのか?ならば彼に娘・目子姫を嫁がせた実力者・尾張氏はなぜ東国へ行くのか?

尾張~弥彦。
その関所のあった地域をつなぐフォッサマグナの東側に位置する長野と岐阜の多氏と尾張氏の関係は深かったはずである。やはり多氏にこそ古代史の謎は隠されている。彼等が同族であれば、むしろ、ある一時期、白石氏のいう狗奴国同盟はヤマトの五王政権を凌駕していた。そこに邪馬台国はない。消えている。そして同じ時期、山辺の道にいた和邇氏も消え、北上、近江の琵琶湖東岸に移動している。
和爾氏から中央に現れる人物は、トヨトミミの使者となる小野妹子ただ一人である。
近江は畿内にあらず、近畿ではあれど、そこから東は畿外=東国ならんや?
壬申の乱・・・・その東国からの援助された兵力が集まったのは不破の関である。近江と美濃のはざま。そこに伊吹山がある。そしてその麓にいたのは継体の父方であると書かれた息長氏。
考えてみれば、すべて東国勢力だ。中心にいた尾張氏。
継体時代より前から倭五王が西の大伴、東の膳と信頼したはずのふたつの氏族も、日下部などの五王郡衙とともに衰退している。尾張氏だけがひとり東海、東国、熊野、大平洋沿岸を海部氏とともに掌握し、中央に多大な影響を与え続けた。先の王朝、河内王朝の生き残りとして。白石説では、まだすべてが納得できたとは言い難い。