阿蘇ピンク石の発色は水銀?

 ところで行橋の草場だが、この地名は中臣氏発祥地としてよく知られたところである。記紀人代の冒頭、神武東征で宇佐に立ち寄り、中臣氏と宇佐氏の婚姻があり、ここで豊後国風土記では中臣氏の本願地が草場であると書かれている。もちろんこれは真実かどうかは不明だ。
それでかつて草場地区の奥にある赤村というところまで探訪した。
水銀、ベンガラ、あるいはタイの少数民族アカ族などなどを頭の隅において、なにかないかな?とばかりに3回ほど巡りました。結局あったのは天智天皇のいわれを残す特牛山だけだったのだが。「ことひやま」あるいは「こっといやま」と読み、意味は特別な牛・・・つまり聖なる山のこと。
「ことひ」については各地に同じような読み方の場所があり、特に、宇佐神宮神官となる大神(おおが)氏の中に特牛という人物がおり、この人は大和オオミワ氏の出身らしい。山口県に赴任し宇佐信仰を広めたような気配がある。大神特牛は宇佐大宮司・大神比義の兄である。その山口はカルシウム台地が広がり「こっとい山」があり、秦氏 の銅山である「あか」のつく山がある。

 私が天野丹生氏出身のKさんを中央構造線の西の端にある阿蘇ピンク石石切場へ同道していただいた理由は、あの当時は、「水銀」と丹生の因果関係解明にあった。凝灰岩の中に水銀が含有されてはいないか?それでああいうピンク色になるのではないか?という「かわかつワールド」な着想からである。
福井県の遠敷(おにゅう)はアカという地名があって、これが水銀のアカに関係する地名。
阿蘇ピンク石のとれる九州の中央構造線の西の端・宇土町のおとなりに、空海ゆかりの伝承がある城南町「丹生の宮」が地名だけ残されており、ここの平原地区には丹色の石室、石棺を持つ古墳群がある。

 その後、丹生については、いろいろ考え、結局は国内では東大寺ルシャナ仏の金メッキが水銀が掘られる最初の記述であるから、ああ、比較的新しいなと考え始めた。むしろ、同じアカでも銅やベンガラの方が古いわけで、水銀が大昔から利用されたかどうかわからないな、と。そこで装飾古墳マニアのWさんにご登場いただき、4~6世紀の古墳の丹色は水銀?という疑問をぶつけてみたわけである。しかしながら当時のW氏の調べでは装飾に丹が使われたかどうかは不明だった。分析では岩石をすりつぶした顔料やベンガラが多いようだった。あのオフ会はとても新発見の多い出会いだった。

 辰沙や朱と書いた史書はみな中国のもので、どうやら水銀ではなくベンガラだった可能性が高い。装飾古墳の朱色はベンガラなどの顔料が多い。さらに縄文土器の丹色はどうか?・・・と、今のかわかつは過去へ遡っていきつつある。

 丹生氏については、Kさんがすでにご自分のブログに書かれたように、水銀よりも銅(アカがね)の意味が深そうだ・・・。しかしながら伊勢の丹生はまちがいなく水銀だろう。などなど丹生のバラエティなつけられかたに分けて考え始めている。天野の丹生は先史には別の氏族名だったのが白鳳天平あたりの仏像ブームから銅や水銀、金が大量に必要となっていった背景が関係ありそうだなと最近では感じている。
丹生文献のパイオニア・松田教授の考察はたしかに理化学的に見直されるべきときがきたようだ。
だから某サイトの丹生神社の全国分布と中央構造線との因果関係地図や記事からはじまる私の「丹生考察」は理科系からの分析を待つしかないのが現状である。大分の丹生遺跡が水銀濃度が高いという某サイトが書いていますが、そういう科学的分析は地元の研究者からはこれまで実は一回もなされていないと聞いている。お聞きしに行くと逆に「出たんですか、水銀が?」と聞き返されてしまった。
どうやら当時の民俗学からのアプローチは空想でしかったようだ。 つまり吉野や熊野の「いひか」「くず」が水銀を掘る山師だったかどうかはいまだに確定していないのである。また田中久男氏や若尾五雄氏の物質民俗学からの想定は不確定要素が多すぎるという結論を「今の段階では」出さざるを得ないことになるだろう。

 阿蘇ピンク石石棺は継体大王時代のブランドだったが、どうもあのピンク色に魅せられた人々はベンガラや水銀の赤のかわりにあの石を貴重品と考えたようである。実は臼杵市~宇土町までの地層は、太古に隆起した石灰岩の巨大な岩盤のうえにのっかっている。アカ地名とカルシウム地層は非常に関係が深いようだ。必ずしも水銀とは限らない。


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