吉野の国樔
●『日本書紀』応神天皇19年
「吉野宮に幸す(いでます)。時に国樔人来朝せり。因りて醴酒(こざけ)を以て、天皇に献りて、歌して曰さく、
 橿の生(かしのふ=カシ林)に 横臼(よこす)を作り 横臼に 醸める大御酒(おおみき)
 うまらに 聞こし持ち食せ(をせ) まろが父
歌よみすでにをはりて、則ち口を撃ち仰ぎ咲ふ(わらう)。今国樔、土毛(くにつもの=土産)献る日に、歌をはりて、則ち口を撃ち仰ぎ咲ふは。蓋し上古の遣則(のり=慣習)なり。夫れ国樔は、其の為人(ひととなり)甚だ淳朴(すなお)なり。毎に山の菓を取りて食ふ。亦蝦蟇(カエル)を煮て上味とす。其の土(くに)は、京より東南(たつみのすみ)、山を隔てて、吉野河のほとりに居り。・・・其の土毛は栗・菌(たけ)及び年魚の類なり。」

*横臼とは大木の幹一本をくりぬいて作るもので、東南アジア、西南中国の焼き畑農耕民の間でもよく使われる。

●『類従三代格』
寛平7年太政官符
吉野山中にある丹生川上神社では、神官らが神域の四至(しいし)を画定したが、その後も、神域を「国樔や百姓(おおみたから)や浪人等」がしばしば侵し、狩猟を行っているので、その行為を禁じて欲しいと訴えを起こした。

*応神記の吉野国樔の後裔と見られる者どもが、丹生川上神社を含む吉野山中を自らの神域と見なし、勝手放題に狩猟していたという話である。これは空海が高野山を開山するときにすでに紀伊山地の山民が信じていた「狩場明神」を土着の神としていたここと通ずる。いずれも焼き畑と好物採集に関わる神である。「カリ」は古代朝鮮語の銅などの鉱物だとも言う。だから「狩り」がすべて狩猟と考えてはわからなくなる。

●空海は弘仁八年(817)に寺地を賜り、弘仁12年にはすでに高野山西麓の天野社の丹生・高野明神を地主神として勧請している。