画像は伊勢・猿田彦神社の可愛い巫女さん。
「日本の神楽の基本形は巫女舞にある。巫女舞はその場で右回り左回りに、回って回り返す。こうした旋舞の激しさを増すうちに、やがて神がかり、跳躍するに至り、神託を下す。神がかりの過程を意識して真似たところに、舞い(マワルことが語源)と踊り(跳躍を主とする)は起源したと考えられる。」
なぜ一定方向への旋回ではなく、順逆双方へ回り返すのか?
「実は韓国の降神巫(こうしんふ)である北部のムーダンも、世襲巫である南部のシンバンおよびタンゴルも、その憑依のテクニックは右回り左回りの旋舞によっている。さらに、この旋舞による神がかりは中国東北部のシャーマンにとって常套手段なのである。」
萩原秀三郎『鬼の復権』から
萩原秀三郎『鬼の復権』から
●ムーダン=巫堂、土着降霊劇の一種)→ http://www.konest.com/data/korean_life_detail.html?no=560
●シンバン=神房=巫覡、巫覡による新婚儀式なども新房と言うが別。→ http://www.milbooks.com/shop/detail.php?code=BK070140
http://www.lifeinkorea.com/culture/marriage/marriagej.cfm?xURL=after
●タンゴル=丹骨=巫覡(同音異文字のタンゴル=常連ではない)→ http://www3.aa.tufs.ac.jp/~ymio/com_5.html
http://homepage2.nifty.com/jiyudaigaku/kannkoku/yougo.htm
●シンバン=神房=巫覡、巫覡による新婚儀式なども新房と言うが別。→ http://www.milbooks.com/shop/detail.php?code=BK070140
http://www.lifeinkorea.com/culture/marriage/marriagej.cfm?xURL=after
●タンゴル=丹骨=巫覡(同音異文字のタンゴル=常連ではない)→ http://www3.aa.tufs.ac.jp/~ymio/com_5.html
http://homepage2.nifty.com/jiyudaigaku/kannkoku/yougo.htm
「エヴェンキ族(ツングースとかヤクートとも言われる)によると、シャーマンの旋舞の目的は右旋左旋とうずまく形で、宇宙の始まりである混沌の世界に入るためという。中国の巫覡の舞の基本とされる『八卦舞譜』によると、「陰陽を以て綱紀(重要な規律)と為す」とあって、舞踏の動作のなかに”左旋””右盤”(盤=ぐるぐる回る)を必須とすることを記している。それは太極図のあらわす、天地がいまだ別れざる以前の陰陽混然の姿を示している。」
前出同書から
●エヴェンキ族→ http://www.allchinainfo.com/ethnic/ewenke.html
前出同書から
●エヴェンキ族→ http://www.allchinainfo.com/ethnic/ewenke.html
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回転することを続けると、脳にある種の麻痺効果が出現する。
いわば麻薬効果があるようだ。
こうして高揚感の絶頂で今度は急激に動きを止めると、見る者は簡単に肌が浮く思い(憑依感・トリップ・トランス状態)に浸れる。
芸能やスポーツの高揚感はこれである。さしずめフィギュアスケートなどは回転と跳躍に取り付かれた憑依スポーツの代表であることになりかねない。冗談
これを超スローモーション画像で表現したのが能なのである。
つまり能ほど冷徹に憑依を表現した芸術はないことになる。能はスローモーション解析ゆえ、冷徹さと分析能力が必須。
世阿弥が図抜けた洞察者であったことがご理解いただけるだろう。まして薪能のように、漆黒の闇の中で幽玄な灯明をあてられる演出が加われば、素人でも魅せられる。しかしながら、時代の疾走感には合わず、唯我独尊の道へとのめり込む危険性と常にうらはらでもあり、残念ながら大衆には受け入れられにくい。
とぎすまされすぎた芸術が人気を失うのは、ジャズのトランペッター・マイルス・デビスの芸術至上主義の失敗と相通じるか。
いわば麻薬効果があるようだ。
こうして高揚感の絶頂で今度は急激に動きを止めると、見る者は簡単に肌が浮く思い(憑依感・トリップ・トランス状態)に浸れる。
芸能やスポーツの高揚感はこれである。さしずめフィギュアスケートなどは回転と跳躍に取り付かれた憑依スポーツの代表であることになりかねない。冗談
これを超スローモーション画像で表現したのが能なのである。
つまり能ほど冷徹に憑依を表現した芸術はないことになる。能はスローモーション解析ゆえ、冷徹さと分析能力が必須。
世阿弥が図抜けた洞察者であったことがご理解いただけるだろう。まして薪能のように、漆黒の闇の中で幽玄な灯明をあてられる演出が加われば、素人でも魅せられる。しかしながら、時代の疾走感には合わず、唯我独尊の道へとのめり込む危険性と常にうらはらでもあり、残念ながら大衆には受け入れられにくい。
とぎすまされすぎた芸術が人気を失うのは、ジャズのトランペッター・マイルス・デビスの芸術至上主義の失敗と相通じるか。
落語家の故・桂枝雀師は憑依の正反対の笑いの神髄を独自の表現で「緊張の緩和」と説いた。
シャーマンの行いはその真逆である「緩和の緊張」と「緊張の緩和」とを繰り返して演出する。効果増大する。
従って一定方向への旋舞(ターン)よりも、双方向への繰り返す旋と盤の高揚感の方が憑依状態=トランス状態への近道だと思われる。リフレインがさらに増幅させる。
そこには踊る者の自己陶酔も加味されるだろう。
ようするに憑依とは神がかりであり、その基本所作は旋回にある。
世界のダンス、舞踏のすべては巫の憑依から始まるのである。
シャーマンの行いはその真逆である「緩和の緊張」と「緊張の緩和」とを繰り返して演出する。効果増大する。
従って一定方向への旋舞(ターン)よりも、双方向への繰り返す旋と盤の高揚感の方が憑依状態=トランス状態への近道だと思われる。リフレインがさらに増幅させる。
そこには踊る者の自己陶酔も加味されるだろう。
ようするに憑依とは神がかりであり、その基本所作は旋回にある。
世界のダンス、舞踏のすべては巫の憑依から始まるのである。
ここへ鈴を振ると、さらに効果が出る。延々と繰り返せばなおよろし。リフレインとストップモーション。
そしてうずを巻くとは「再生」願望である。
そしてうずを巻くとは「再生」願望である。
日本の祭りでの代表例・・・阿波踊り(同じ音曲と同じ演舞を延々とリフレインしながらトリップする。)阿波踊りはシャーマニズムである。しかしながら異常行為である旋回や跳躍は伴わない。これは能のゆるい動きにも通ずる。歌舞伎でもストップを多用し、あまり動きのない抑制した演目が多い。猿丸踊りも手を早く動かすが、ほとんど同じ動きを繰り返す。日本の舞踏は「忍ぶ」芸能である。なにを?
もうおわかりだろう。
もうおわかりだろう。
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php
秦氏が祭る神の国 プロローグ http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/hatasiga.html

コメント
コメント一覧 (5)
不思議な魅力があるのだなぁ~。とズッーーと思っていました。
kawakatu
が
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kawakatu
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勉強になりました。
しかし、うちの神楽は、旋回はあまり多用しません。
系の違いだと考えますが、島根の神楽は旋回を多用している印象が多くあります。
また勉強に来ます。
kawakatu
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旋回を伴わぬ神楽ですか・・・・・・・・・もしやとは思いますが、いつの頃からか省略された可能性はありませんか?
と申しますのは、かつて神楽などの民衆芸能の継承者がほとんどいなくなるという時代があって、演者が老齢化して、激しい動きを省略してゆくという場合がなくはありません。
そうでなければ非常に希有な例証ではないかと思いますので、来年のでも、見に行かせていただきます。
そうですか、あまり旋回がない神楽・・・・・・・・・・・・・・
kawakatu
が
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サセン、ウバン(あるいはその逆も)そして反閇は二本の舞踏、芸能、歌垣、神楽、呪術の基本である。それは神やらい神楽にも体現されている。
kawakatu
が
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