「花会」「花祭り」

愛知県から長野県、甲信地方に多い花祭り(霜月祭り)は、お水取り結願日の「花会式(はなえ・しき)」に開始の原点がある。
先だって行われる修二会(しゅにえ)では、五体投地(ごたいとうち)など練行衆による諸行事があり、花会式では薬師如来に諸病平癒を祈願し献花の儀があり、つづいて呪師の「走り」がある。
法術師(ほずし)が剣を天地に、かつまた十字にかまえ、薬師三尊の須弥壇のまわりを刻み足で「素早く」走る。
四天王を勧請し。印を結び、乱声(らんじょう)の呪文を唱えて、金剛鈴を振り、つるぎをかまえて巡る。これらすべては仏教が混入した古密教の所作である。

もともと仏教以前から原始信仰でなされていた所作に、密教の所作が混入する。
修験はちょうどそれの神道寄りの所作のほうが多く残る。
古代には宮中で行われた追儺が、中世になって仏教要素が力を持って混入し、こうしたお水取り行事が広まることとなった。だから追儺が本来持っていた「贄」「残酷さ」は消されて行くのである。そこには武家が大いに重用した儒教道徳の官僚的哲学も影響した。神官の方からむしろすすんでそうした古代の儀式を捨てていった。かわりにカタシロが出現する。カタシロは呪いの「ふこ」で用いるヒトガタを代用したものである。これを人形供犠とも言う。

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お水取り起源の同じ系統の行事としては愛知県鳳来町黒沢阿弥陀堂「田楽」、静岡県引佐町寺野観音堂の「おこない」、静岡県水窪町西浦観音堂の「田楽」、大分県国東半島一帯の「鬼会」、東京都三宅島御斎神社の「八日祭」などがある。

これらの全国的伝播は「モノまね」(コピー)から始まる。
河勝が猿楽の本義を「物まね」から始まると言ったと『風姿花伝』が書いたこととまったく同じなのである。
河勝の言った「ものまね」とはなにか?
それは能の中にあるさまざまな形式・・・白拍子舞、曲舞(くせまい)などの要素は、みな、物まねから世阿弥の能の中に取り込まれていったわけで、つまりこれが猿まねであることから申楽は猿楽となった。
猿田彦の妻となったアメノウズメノミコトが「猿女君」の祖と書かれるのも、彼女が舞踏者だったからであるし、猿丸太夫が芸能伝道者だと考えられるのも猿まねによる古今伝授が存在したからだ。
この猿丸太夫と同族だとされるのが近江の柿本氏で、それは和邇氏同族であると言われている。
彼らもまた渡来人である。おそらく和邇や小野や柿本の本願地が近江の琵琶湖の北西に今もあることと無関係ではあるまい。また野洲町は琵琶湖の南南東に位置するから、この対角線は和邇氏にとって聖なる線だったのだろう。陰陽と製鉄加工を知る「鬼道」の氏族だったと想像できよう。卑弥呼のシャーマニズムが鬼道と呼ばれたのは、陰陽や神仙思想の神秘主義を魏の曹操が非常に嫌っていたためで、同じ表現が江南やミャオ族や東北地域の大平道、五斗米道などにも使われている。

さて、田楽のもっとも喜ばれる踊りは、なんといっても夫婦のこっけいなからみである。
今は子供によるお田植えと、地方によってこの少し卑猥なダンスが残されるだけだが、稲作信仰が始まった頃はもっとさまざまの追儺儀式が田楽にはふくまれており、その中に神楽や巫女舞もあった。
多産信仰とも言えるおかめひょっとこ踊りの原型となるこの舞は、田植えだけでなく鍛冶屋、山師の間でもよく踊られた。
夫婦のからみはもちろんそのまま陰陽二極から生じる生命の誕生=宇宙の根源を表している。
伏儀と女かの組み合わせが宇宙の大元だったように、男女のからみが世界の真義を伝えてきた。
言い換えると、夫婦の行い亡くして行けば世界は消滅するのだと、営々と訴えてきたのである。
昨今の少子化は、だから摂理に反する罰当たりと、昔の人なら言うであろう。
祟りが来る。
因果応報だと言うだろう。


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