「本田安次は『翁そのほか』で、翁にさまざまな翁があったことを示しているが、その中の一つに「祝詞の翁と開口の翁(のっとのおきなとかいこうのおきな)がある。開口の翁とは、平泉中尊寺に伝わる故実舞に出る翁で、中尊寺の勝景をたたえ、堂塔をほめ、千秋万歳を唱えるもの。また祝詞の翁とは、おなじく平泉町の毛越寺に旧正月二十日の夜、本尊を後戸(うしろど)で守護する摩多羅神(マタラじん)の祭りに行われる延年(えんねん・年越し)に出る翁である。王の鼻の、天狗に似た面をつけ、杖を携え、背に桑の弓と蓬の矢を負った特殊な翁装束の者がでて、秘文を唱える。その秘文の内容は、摩多羅神の御本地(天竺)を説き、御願円満、息災延命を祈るもの。」
「摩多羅神の祭りで有名なのは、京都太秦の広隆寺境内の大避(おおさけ、大酒)神社の牛祭りである。(中略)十月(もと九月)十二日、インド伝来の神といわれる摩多羅神が、赤鬼、青鬼二人ずつを従え牛に乗って拝殿まで来て、摩多羅神が段に昇り、四鬼を従えて祭文を読み上げる。祭文は災厄退散の祈願文だが、はなはだ珍文で、長々と唱え上げる。それぞれ特異な紙の面をつけているが、終わると祖師堂に飛び込む鬼と摩多羅神の面は群衆によりはがされ厄除けとされた。太秦寺の守護神の祭りで、土地の精霊が祝福にやってくる型式をとっている。」
「『風姿花伝』の河勝伝説によると、六十六番の物まねを河勝は子孫に伝え、摂津国難波の浦より、うつほ舟に乗って、風まかせで
播磨の国坂越(しゃくし)の浦に着くが、諸人に憑き祟って奇瑞をあらわした。そこで神と崇めて、大いに荒れる神なので、大荒明神(おおさけみょうじん・荒神のこと)と名付けたという。」
播磨の国坂越(しゃくし)の浦に着くが、諸人に憑き祟って奇瑞をあらわした。そこで神と崇めて、大いに荒れる神なので、大荒明神(おおさけみょうじん・荒神のこと)と名付けたという。」
参考文献 萩原秀三郎『鬼の復権』吉川弘文館歴史文化ライブラリー172 2004
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世阿弥(ぜあみ)のおんな婿だった金春禅竹(こんぱる・ぜんちく)は「翁」を宿神と呼ぶべしと規定し、秦河勝を「翁ノ化現」と信じて疑わない。(『明月集』)
翁こそは申楽芸能者たちが最神聖視した「宿神」だった、と萩原は書く。
そして大酒神社の大避大明神の本義は、大荒大明神で、それは「うつほ舟」で寄りついた神だと言うのだからすなわち=来訪神(クルセダー、ドリフター、ランブルゴッド、漂い来る精霊。例えば少名彦や南海のピーのような)の一種なのだろう。
翁こそは申楽芸能者たちが最神聖視した「宿神」だった、と萩原は書く。
そして大酒神社の大避大明神の本義は、大荒大明神で、それは「うつほ舟」で寄りついた神だと言うのだからすなわち=来訪神(クルセダー、ドリフター、ランブルゴッド、漂い来る精霊。例えば少名彦や南海のピーのような)の一種なのだろう。
宇佐神宮などでも、八幡神は翁の姿で顕現する。
あるいは聖徳太子は童子の姿で表される。
鬼=神=ミタフリで、あり得ぬ魔力、呪力を持つ者は老人か小さな肉体保持者なのである。
西洋ではゴブリンや魔法使いのおばあさんであって、観念はまったく同じと言える。
あるいは聖徳太子は童子の姿で表される。
鬼=神=ミタフリで、あり得ぬ魔力、呪力を持つ者は老人か小さな肉体保持者なのである。
西洋ではゴブリンや魔法使いのおばあさんであって、観念はまったく同じと言える。
そして時に、この神は人の姿をして、ちまたの漂泊の「ほかい人」たちをも呼ぶ言葉となっていった。
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摩多羅を曼荼羅からと考える人もいるが、本来、天台宗の本尊である摩多羅神は煩悩の象徴で、修生そのものの神格を持つ。煩悩こそは人の中にある鬼であるから、摩多羅神とはあなたや私そのものだと思って良いだろう。
仏教はあとから被さったと考えて、あまり仏教概念にとらわれない方がいいようだ。
仏教はあとから被さったと考えて、あまり仏教概念にとらわれない方がいいようだ。
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播磨の坂越を「しゃくし」と呼ぶけれど、実は「宿神」は「石神(しゃくじん)」すなわち塞の神(さいのかみ、さえのかみ、さやのかみ)でもあると言う。いつから混じったかはわかっていないが、諏訪大社のミシャグジーも石神の一種で、御柱を立てる儀式は、本来石神への献身だったとされる。御柱を立てる場所には石の礎があって巨木信仰が、もともと巨石信仰から派生したとも考えられている。巨石や道祖神が石を神・・・自然の驚異の象徴とされたのは間違いあるまい。
河勝が宿神で、難波の浦から播磨へ向かったという話は、どことなくアメノヒボコの但馬、播磨経営を思わせる。より来る神となった秦河勝が「水のスグリ」だったことを思うと、彼らが列島にやってきた行程が気になってくる。
諏訪大社が阿蘇氏による大祝の風の鎮護場所となった700年代、あるいは阿蘇神社大祝が風と地震の鎮守者として奈良期に博多の宮家に入った800年代とあわせて考えるに、阿蘇氏出自に関係した多氏 と秦氏 の非常な類似性に思いが行く。
諏訪大社が阿蘇氏による大祝の風の鎮護場所となった700年代、あるいは阿蘇神社大祝が風と地震の鎮守者として奈良期に博多の宮家に入った800年代とあわせて考えるに、阿蘇氏出自に関係した多氏 と秦氏 の非常な類似性に思いが行く。
秦氏 という氏族名には「多くの」という朝鮮古語の意味が含まれているのだと言う。(大和岩雄)
多くの人々、多くのモノを鎮守するのが役目のようである。
それは日本の祭祀形態が、とりもなおさず渡来人である彼らによって続けられていたのが、藤原氏の台頭によって、中臣神道へと集約される課程で、多氏や秦氏が朝廷祭祀の歯車のひとつとして取り込み利用されていった・・・これは重要な歴史的命題であろう。
この国の組織の根底に渡来人たちの存在が欠かせなかったということは、言い換えれば、朝廷は渡来文化と旧来の縄文文化の折衷によって成立したのだと想像できる。
そして古い民とその信仰は、新しき型式に取って代わられ、それこそが追儺、それこそが今の神社の中身ではないか?との考えに到達することになるわけである。
実はこれが拙著『秦氏が祭る神の国 ・その謎』の主たる主旨である。
それは日本の祭祀形態が、とりもなおさず渡来人である彼らによって続けられていたのが、藤原氏の台頭によって、中臣神道へと集約される課程で、多氏や秦氏が朝廷祭祀の歯車のひとつとして取り込み利用されていった・・・これは重要な歴史的命題であろう。
この国の組織の根底に渡来人たちの存在が欠かせなかったということは、言い換えれば、朝廷は渡来文化と旧来の縄文文化の折衷によって成立したのだと想像できる。
そして古い民とその信仰は、新しき型式に取って代わられ、それこそが追儺、それこそが今の神社の中身ではないか?との考えに到達することになるわけである。
実はこれが拙著『秦氏が祭る神の国 ・その謎』の主たる主旨である。
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