宿借り やどがり
長崎県対馬の豆酘(つつ)の葬送儀礼に「宿借り」というものがある。
喪主が葬送を済ませて家に帰ると、座敷の上がりがまちで家人と喪主がが次のようにやりとりする。
喪主が葬送を済ませて家に帰ると、座敷の上がりがまちで家人と喪主がが次のようにやりとりする。
「たのみましょう」
「どう~け?」
「一夜の宿を貸してください」
「できまっしぇん」
「浜の真砂に花が咲いても、二度と帰り足は踏みません」
「そんなら入れ」
「どう~け?」
「一夜の宿を貸してください」
「できまっしぇん」
「浜の真砂に花が咲いても、二度と帰り足は踏みません」
「そんなら入れ」
こうして喪主はようやく家に上がれるのだが、そのとき、四本の木の台を乗り越えながら、これを後に蹴り飛ばす。一般的な塩で清める程度では済まないのだ。ついてくる死霊を払うのに、かつての日本人はこれほどまでの辟邪を行った。
喪主が我が家に帰って「一宿一飯」の仁義を述べて懇願する。
すなわち「宿借り」である。
「宿る」とは旅の一宿一飯をよその地霊、地主に「借りる」ことで、その土地の地霊、祖霊、あるいは野に死んだ野鬼・地縛霊に対する鎮魂がなければ祟られるという観念を常識的前提としていた。今ではまったく皆無となった民間信仰である。
すなわち「宿借り」である。
「宿る」とは旅の一宿一飯をよその地霊、地主に「借りる」ことで、その土地の地霊、祖霊、あるいは野に死んだ野鬼・地縛霊に対する鎮魂がなければ祟られるという観念を常識的前提としていた。今ではまったく皆無となった民間信仰である。
神楽の曲目にも宿借りがある。
嶽之枝尾神楽(たけのえだお・かぐら)、藺牟田神舞(いむた・かんめ)、入来神舞、行波神楽など。
これらでは宿を借りに来る神霊を歓待する・・・すなわち「祖(蘇)民将来」伝説の原型がそこにある。
嶽之枝尾神楽(たけのえだお・かぐら)、藺牟田神舞(いむた・かんめ)、入来神舞、行波神楽など。
これらでは宿を借りに来る神霊を歓待する・・・すなわち「祖(蘇)民将来」伝説の原型がそこにある。
つまり彷徨う神をお迎え入れるとよいことがあるという、やや儒教(道徳)的概念がここにはすでにある。
逆にすげなく扱えば祟られる辟崇観念もある。
辟崇も儒教も、原型は中国にあったと思われる。
来訪神を迎えるという観念は、特に正月前の大晦日に追儺(ついな)となって大きく取り上げられるようになる。
旧正月の東大寺お水取りなどの修二会ももちろんこれである。
しかしこの「儺」の様式はすでに中国江南、あるいは北東部オロチョン族などの間に古くから存在した。源流は江南の少数民だと民俗学では言われているが、人類学的にはおそらくバイカル湖から、寒冷期に騎馬によって南下した可能性もある。
古ミャオやヤオたちは北方の少数民族とは犬祖神話で共通である。
歴史的には三世紀前後の遼東への神仙思想伝播も考えられ、はっきりとはしない。
逆にすげなく扱えば祟られる辟崇観念もある。
辟崇も儒教も、原型は中国にあったと思われる。
来訪神を迎えるという観念は、特に正月前の大晦日に追儺(ついな)となって大きく取り上げられるようになる。
旧正月の東大寺お水取りなどの修二会ももちろんこれである。
しかしこの「儺」の様式はすでに中国江南、あるいは北東部オロチョン族などの間に古くから存在した。源流は江南の少数民だと民俗学では言われているが、人類学的にはおそらくバイカル湖から、寒冷期に騎馬によって南下した可能性もある。
古ミャオやヤオたちは北方の少数民族とは犬祖神話で共通である。
歴史的には三世紀前後の遼東への神仙思想伝播も考えられ、はっきりとはしない。
白川静博士は「儺」は本来人偏に「漢」の旁だったと書く。
儺を追うとは辟邪辟崇そのものである。
これが漂泊民への応対へとなったのは、彼らが歴史の被害者であると同時に、漂泊する、宿を借りてさまよう神の姿と一致したからなのだろう。正月のしめ縄を彼らが商った理由も実はここにある。
手のひらの表裏のように、神と鬼は同根であり、漂泊民への哀悼と辟邪も同居する。
哀れみと迷惑は紙一重で人につきまとう。
ここに靖国の英霊信仰と戦犯辟崇観念の謎も含まれる。
これが日本人のアイデンティティなのであろう。
仏教と儒教のあとからの混交も当然起きている。それは主に密教に横溢する。
東大寺もまた真言密教の寺院である。
これが本地垂迹、神仏混淆である。
これが漂泊民への応対へとなったのは、彼らが歴史の被害者であると同時に、漂泊する、宿を借りてさまよう神の姿と一致したからなのだろう。正月のしめ縄を彼らが商った理由も実はここにある。
手のひらの表裏のように、神と鬼は同根であり、漂泊民への哀悼と辟邪も同居する。
哀れみと迷惑は紙一重で人につきまとう。
ここに靖国の英霊信仰と戦犯辟崇観念の謎も含まれる。
これが日本人のアイデンティティなのであろう。
仏教と儒教のあとからの混交も当然起きている。それは主に密教に横溢する。
東大寺もまた真言密教の寺院である。
これが本地垂迹、神仏混淆である。
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