うせん さばん
能では右へ回ることが右旋(右盤)
左へ回ることを左盤(左旋)
左へ回ることを左盤(左旋)
要するに早く回る・・・渦を描く・・・ダンスで言うターンであろうか。
世阿弥『風姿花伝』に規定されたシャーマニズム的表現方法の基礎である。
これを別の言葉・・・和歌の枕詞では「千早ぶる」と言う。
「ちはやぶる」とは非常に早い水流を示すが、その万葉表記の中には「千葉破る」ともあり、それほどの急激な変化を言う。
「ちはやぶる」とは非常に早い水流を示すが、その万葉表記の中には「千葉破る」ともあり、それほどの急激な変化を言う。
シャーマンの憑依と舞踏は急速な旋回を旨とし、あとの時代になると、能、狂言に表される旋回は非常に遅くなって行く。これが「格式」である。
巫げきの演ずる憑依は、非常なスピードを伴うが、それがやがて形式化すると、旋回のスピードは遅くなる。憑依が自然の猛威のスピードに近づこうとしたのに対し、型式化した芸能のスピードは権威的に、かつ威厳に満ちるがためにゆっくりとなることとなる。
巫げきの演ずる憑依は、非常なスピードを伴うが、それがやがて形式化すると、旋回のスピードは遅くなる。憑依が自然の猛威のスピードに近づこうとしたのに対し、型式化した芸能のスピードは権威的に、かつ威厳に満ちるがためにゆっくりとなることとなる。
能はそれらの究極である。
しかしながら、演じられる「動き」の中に、一瞬の停止を必ず伴う。
これを歌舞伎では「見栄」と言い、実はこの停止行為にこそ憑依の本質がある。
見る者を、鳥肌の立つほどの深い、一瞬の深淵に導くこの演出こそが、実はシャーマニズムの「だまし」・・・すなわちすべての主観的芸術につながる公認された憑依なのである
しかしながら、演じられる「動き」の中に、一瞬の停止を必ず伴う。
これを歌舞伎では「見栄」と言い、実はこの停止行為にこそ憑依の本質がある。
見る者を、鳥肌の立つほどの深い、一瞬の深淵に導くこの演出こそが、実はシャーマニズムの「だまし」・・・すなわちすべての主観的芸術につながる公認された憑依なのである
怪談における恐怖、振り返り、見上げ、見下ろし、などのすべての人の高ぶりの本質がそこには氾濫している。要するにいかにだますかがシャーマニズムの授受の本質だと言える。
中国で、神話の主人公に「盤古」がいるが、この「盤」の文字ももしや「旋回」する憑依の芸能者としての神格が含まれたかも知れぬ。
あるいは中国で言う「天は左旋し、地は右盤す」、あるいは日本のいざなぎ・いざなみのポールを左右に周り、巡る性的行為などもこれらに類似する。
あるいは中国で言う「天は左旋し、地は右盤す」、あるいは日本のいざなぎ・いざなみのポールを左右に周り、巡る性的行為などもこれらに類似する。

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