八雲というのは「数多くの」雲。

出雲大社は別名「天日隅宮(あめのひすみのみや)」という。

祭殿は南を向くが、中のオオクニヌシさんは西を向く。

西は酉の方角で金気の方角である。
つまり日が沈む方角(正確には陰陽道では北西、北北西の戌亥)で、黄泉を向いておられる。
戌亥の隅と言いますと世阿弥の用いる謡曲の用語。
より来る神=宿神の去って行く方角を示す。

非常に示唆に富むのは、出雲大社から見て戌亥の方角には例の神庭荒神谷と岩倉遺跡がぴったり線上に並ぶのである。
だからあの出雲の「宝」は死者=敗者を鎮魂したことになる。

反対は辰巳(東南東)で、こちらはやって来るニライカナイの方角である。
日の出の方角から神は依り来て、日没の方へリーインカーネーションなさる。

八雲が「雲」かどうか考えることがある。
というのは出雲大社の岩根御柱は全部で9本ですが、真ん中の一本は神殿の棟には届かないサイズで、残りの8本が建築用地の「隅々に」掘っ立てられていた。
「やくも」とは「八つの隅」だったのかも知れない。
この考え方で例の素盞嗚尊の「八雲立つ」を意訳してみよう。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

   八カ所の隅に八つの柱を建てよう
       そこに我が妻を籠もらせよう
    そして八柱のその神殿に籠もらせた蛇神に我が妻を贄として斎王として捧げよう

となり、この歌がスサノヲ自身が滅ぼしたヤマタノヲロチを、生贄である櫛稲田姫を捧げて、鎮魂しようとした「辟崇(へきすう=鬼を遣らいその祟りを封じる)辟邪」から出た出雲の民の願望であることが表出することになる。この歌が文献最古の和歌であるということは、すなわち芸能の根本は辟邪辟崇であるとなる。それは日本人の信仰とまったく同じ根本概念でできあがっており、神社祭祀とまったく同じ観念からであることがわかる。