追記 訂正各論と新たな疑問
●物部氏が豊前企救郡や筑後八女に多いのは磐井の乱の戦闘員の中で残留した枝族がいたためだと思われる。物部氏の出自を企救郡と考えていたかわかつの初期の考えは誤りだったようだ。やはり物部氏は出雲か?
●大伴の枝族についても同様のケースがあるだろうし、また中央から派遣されていたケースはかなりある。
●允恭とピンク石につながりがあるならば、仁賢や雄略にもあるはずだ?
●雄略以後の武烈から継体以前までは不在(大動乱期)だと考えていいかどうか、まだ疑問はいくつかある。しかし空白とした方が百済の史書には合致する。
●物部守屋の神霊は聖徳太子によって大阪玉造の鵲森ノ宮から四天王寺へ移動されたと言われている。確かに四天王寺には守屋敗北後、物部家人の俘囚たちが入っている。それは四天王寺の儀式である雅楽の舞い(そまくしゃ)にも現れているし、彼らが守屋の神霊を祭るために入ったことは谷川健一等も考察している。その四天王寺にピンク石らしき石棺の一部とおぼしき礼拝石が存在する。?である。
●蘇我氏の血を引く竹田、厩戸、崇峻、額田部姫(推古)たち、あるいはまた蘇我馬子以後の蝦夷や入鹿、さらには赤兄にまで至る系譜の中で竹田皇子だけにピンク石が使われたらしい事実は非常に奇妙である。ほかにいないのか?
●物部氏が豊前企救郡や筑後八女に多いのは磐井の乱の戦闘員の中で残留した枝族がいたためだと思われる。物部氏の出自を企救郡と考えていたかわかつの初期の考えは誤りだったようだ。やはり物部氏は出雲か?
●大伴の枝族についても同様のケースがあるだろうし、また中央から派遣されていたケースはかなりある。
●允恭とピンク石につながりがあるならば、仁賢や雄略にもあるはずだ?
●雄略以後の武烈から継体以前までは不在(大動乱期)だと考えていいかどうか、まだ疑問はいくつかある。しかし空白とした方が百済の史書には合致する。
●物部守屋の神霊は聖徳太子によって大阪玉造の鵲森ノ宮から四天王寺へ移動されたと言われている。確かに四天王寺には守屋敗北後、物部家人の俘囚たちが入っている。それは四天王寺の儀式である雅楽の舞い(そまくしゃ)にも現れているし、彼らが守屋の神霊を祭るために入ったことは谷川健一等も考察している。その四天王寺にピンク石らしき石棺の一部とおぼしき礼拝石が存在する。?である。
●蘇我氏の血を引く竹田、厩戸、崇峻、額田部姫(推古)たち、あるいはまた蘇我馬子以後の蝦夷や入鹿、さらには赤兄にまで至る系譜の中で竹田皇子だけにピンク石が使われたらしい事実は非常に奇妙である。ほかにいないのか?
2008/4~5月現在
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