5世紀後半、阿蘇凝灰岩灰色石石棺によって河内の古市古墳群に埋葬された人物たちは、大伴氏が仕えた河内の大王=倭五王たちの中の、倭王済=允恭大王の古墳群であると板橋は書いている。
古市でひときわ目立つ市野山古墳はその允恭の墳墓であるとされている。

唐櫃山(からとやま)、長持山古墳。

允恭からずっとさがった6世紀、日本書紀につぎの人物名が登場する。

「火葦北国造刑部靫部 阿利斯登」
「ひのあしきたの、おしさかべ(おさかべ)のゆげいべ ありしと」

まずその長い肩書きのうち、刑部というのが允恭大王に大いに関係する。
というのも、刑部とは允恭大王の后であった忍坂大中媛(おしさかの・おおなかつ・ひめ)のために制定された名代部なのである。
名代部とは大王や王族の経済的まかないを専門にとり行うための所領、すなわち大王の台所とも言える重要な職掌なのであった。
その重要な所領を管轄し、軍事的防衛を行っていたのが実は靫部である。
肥後南部、氷川や宇土半島からやや南下した葦北の国造(くにのみやっこ)が、どうして同時に中央の靫部なのか?
もともと中央の靫負を管理していたのは、軍事力で大連となっていた大伴大連氏だった。

  大伴の名に負う靫帯びて 万代に恃み(よろずにたのみ)し心いづくか寄せむ   大伴家持・万葉集

大伴の末裔である歌人・大伴家持は自らの氏族の過去の事績をよく知っていた。
大伴氏から出た大連・金村の時代まで、大伴氏は名にし負う大豪族であったが、継体大王の時代、筑紫の磐井の乱で遠征に失敗し、格下の物部大連アラカイによって座をあやうくしてゆくようになる。軍人がいくさにしくじれば、信頼はがた落ちとなるのは当然である。
それでもまだ金村は蘇我氏の政権に一目置かれていた。
なにしろ伝統ある最初の王権・倭王の宰相だった生え抜きだからだ。
磐井はひしひしと火の君を従えた火の国造家の北上にいらついていたのだろう。
機会さえあれば半島の新羅と結ぼうと考えていたに違いない。
一方、下から追い上げて勢力を広げようとする火の国造家は息子を百済へ留学させていた。
火の葦北国造は大和の靫大伴部に栄達のために出仕していた関係上。上司である大伴金村の命で、当時風前の灯火であった任那救援軍に加わったのである。そのえにしで百済で生まれた息子はそのまま百済官僚となってスパイ的役目を負っていたと見られる。

筑紫の君たちは両側から挟み込まれ、立ちゆかなくなっていた可能性が非常に大きい。

すなわち火の葦北国造は大伴氏と運命共同体だったと考えられる。つまりやがて大伴氏が衰亡すると彼らも衰え、阿蘇凝灰岩は次第にブランド的価値をなくしていったのである。

さて、允恭の后だった忍坂の媛であるが、彼女の兄は誰か?
淀川で住之江から近江の琵琶湖までを牛耳っていた地方豪族・オオホド王なのである。

文献ではその後の大王・安康、雄略の妻もオオホド王の一族から出ている。
彼らは水運の雄と言われていた。
そのオオホド王から分かれた七つの氏族がある。
近江の息長をはじめとする近江、古志の氏族たちである。
ところがこの中にひとつだけ九州に縁のある一族があった。
それは筑紫の末多君である。

末多は記録違いで、本当の名は未多。「まった」ではなく「めた」が正しいと言われている。佐賀県上峰郡三田川町・・・・・・・・すなわち今の神埼郡吉野ヶ里町!
ここの氏族は目達原(めたばる)古墳群の被葬者たち、すなわち筑紫米多氏と名乗っていた。この古墳群は允恭の五世紀のものである。正確には筑紫のはおかしい。ここは佐賀県、肥前の君が正確な表現だろうが、当時筑紫は九州すべての呼称だからそう呼ばれている。
彼らが吉野ヶ里の1世紀、すでにここにいたかどうかは知らない。
しかし允恭の5世紀にはここにいて、なぜか近江の息長氏と血縁関係にある。

さて、息長氏と来れば継体大王のスポンサーであり、福井の三尾氏とも姻戚関係。なによりも彼らは神功皇后の出身氏族。九州と神功皇后、息長氏・・・ひいては倭王権から継体大王とも関わる理由がここにある。

この筑紫の末多・・・いや、米多君こそがおそらく佐賀県の「肥の君」ではないかという説がある。すなわち、熊本県肥後にいた火の君とは別の肥の君。これは空想に過ぎない。

さて肥前のことはさておき、オオホド王に嫁いだ姫の中には越前の豪族の娘がいた。その娘と近江の豪族、彦主人王との間に一人の皇子が生まれる。ヲホドの命・・・継体大王である。
こうして見ると、継体大王と倭王・允恭との血縁は非常に薄いことがわかる。いや血縁はなきに等しい。
允恭の妃の子供というだけで、妃同士にはまず血縁はあろうはずもなく、さらにその娘と地方豪族の間の子供と、というだけでは允恭のひ孫とはちと、無理がある。だから倭王との血筋としてはあまりにも遠い。腹違いよりもさらに遠いのである。

そんな継体が九州で頼れるものは、ひとりだけ、すなわちそれが米多君。

いや、実は今一人、なんと和歌山隅田八幡の人物画像鏡にその名前がある。

その名は「斯麻」。

しま・・・・。

摂津三島の豪族である。
人物画像鏡は彼が作らせたと書かれていたのである。
それも大王が忍坂の宮で政務をとっていた御代にとある。
だから画像鏡に書かれている忍坂にいた大王とは允恭にほかならない。
しかし異説がある。
大王は允恭ではなく、仁賢だとするものだ。
そして斯麻の本名を百済武寧王=斯麻王のことだとするのだ。
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確かに継体と武寧王は親しい友人であった。
この説だと継体は允恭のひ孫などではなく、雄略~仁賢に取り立てられた三島の豪族に過ぎないとされてしまうのである。(山尾、平野説)
となると息長や三尾、彦主人王、オオホド王とのえにしもでっちあげ(大伴氏の?)となってしまうから大変である。さらには斯麻王・武寧自体が筑紫の島で生まれた伝承を持つことから、米多君こそが武寧だという、まさかの珍説さえ出てきかねなくなる。

さあ、大変。
このあとは継体大王の今城塚へとなるのだが、そのあたりはすでに現地検証はかわかつワールドブログで済んでいる。とばして次は一気に用命、推古、そして聖徳太子の時代へひとっ飛びしてみたい。

次回、疲れたのでしばし休ませていただき、インターバルとしてここには浦島伝説と呪文をはさんでおきたい。

以上、参考文献・板橋旺爾『大王の柩』海鳥社 2007
        大王のひつぎ実権航海実行委員会・読売西部本社編『大王のひつぎ海をゆく』海鳥社