さて、阿蘇凝灰岩使用古墳一覧をご覧になれば、一目瞭然で氷川、菊池川産の石にとってかわってゆく宇土産凝灰岩石棺の動向がおわかりになったことと思う。
宇土の灰色石が最初に使われたのはご覧の通り、吉備王の巨大古墳、350メートルの造山古墳前方部である。当初、備前に入っていたのは菊池川産石棺だった。それが時代を少ししか異にしないお隣の備中造山古墳の、しかも吉備王という最大氏族に錐もみのように宇土の石が。
宇土と氷川は隣接する。
読売新聞の板橋旺爾は、だから宇土の石を持ち込んで吉備王と深くえにしを結んだのは氷川の豪族の起死回生の逆襲だととらえた。それはにわかに断定はできないが、ヒントになるのが大坂藤井寺の長持山古墳二号石棺だと感じる。
読売新聞の板橋旺爾は、だから宇土の石を持ち込んで吉備王と深くえにしを結んだのは氷川の豪族の起死回生の逆襲だととらえた。それはにわかに断定はできないが、ヒントになるのが大坂藤井寺の長持山古墳二号石棺だと感じる。
ここは菊池川の石を身にし、新参の宇土の石を蓋にしており、河内の苦肉の策と見て取れる。造山への売り込みからまだ二、三十年では、畿内にまでえにしが深まっていなかった可能性がある宇土豪族は、しかしこれを契機に完全に倭王権に浸透して行く。6世紀にはもう大和、摂津、近江の大王クラスの石棺のすべてが宇土産へ移行している。それをさらに決定的にしたのが言うまでもない宇土の赤い石棺であろう。
これによって氷川宇土は逆転さよならホームランを放った。
こうして火の国造は倭王によって宇土半島そばの葦北へ決定する。
そして吉備王の弟であった葦北国造・吉備の鴨分子孫たちは一大勢力を持ったことになるだろう。
もちろん河内の倭王権にとって、吉備王は「鉄の大王」。もともと発言力が強大で捨て置けるはずもない。そもそも河内王朝の創始こそがこの吉備なしではありえなかったと考えられる。
こうして火の国造は倭王によって宇土半島そばの葦北へ決定する。
そして吉備王の弟であった葦北国造・吉備の鴨分子孫たちは一大勢力を持ったことになるだろう。
もちろん河内の倭王権にとって、吉備王は「鉄の大王」。もともと発言力が強大で捨て置けるはずもない。そもそも河内王朝の創始こそがこの吉備なしではありえなかったと考えられる。
だからこそ、河内、大和の前方後円墳の様式に吉備は非常に影響したと見る。
楯築式突出、楯築式土器、直弧文の採用・・・。
すべて納得がいく。
そしてその背後にいた肥後熊本の氷川・宇土の豪族たち・・・。
彼らの中央でのバックアップを引き受けたのは、間違いなく、葦北国造から「我が君」と呼ばれた大和大伴大連一族であろう。
楯築式突出、楯築式土器、直弧文の採用・・・。
すべて納得がいく。
そしてその背後にいた肥後熊本の氷川・宇土の豪族たち・・・。
彼らの中央でのバックアップを引き受けたのは、間違いなく、葦北国造から「我が君」と呼ばれた大和大伴大連一族であろう。
河内王権下で、大伴大連は絶大な力を持つ宰相であった。
大連の位は大臣を凌駕するものである。
それは大和在住勢力だった出雲にえにしの深い銅鐸氏族・物部大連よりもさらに上。
なぜなら大伴大連は最初から河内王朝の親衛隊として、すでに半島、九州から五王たちを助けてきた経緯があるからではあるまいか。
大連の位は大臣を凌駕するものである。
それは大和在住勢力だった出雲にえにしの深い銅鐸氏族・物部大連よりもさらに上。
なぜなら大伴大連は最初から河内王朝の親衛隊として、すでに半島、九州から五王たちを助けてきた経緯があるからではあるまいか。
大伴氏は西から来た、最古の氏族ではないか。
とりもなおさず、こうして宇土半島という北部九州と南部九州のはざまにある辺境の地にゆるぎなき在地豪族「火の君」が誕生する。しかしやがて実権を持ちすぎた彼らに「別の国造」という人物がやってきて管理を始める。火の葦北国造の登場。
国造が出雲、尾張などで行う事績は、強すぎる在地豪族の監視と管理であろうと思われる。
国造が出雲、尾張などで行う事績は、強すぎる在地豪族の監視と管理であろうと思われる。
おそらく葦北国造もそうした指命を負ってやってきたのだろう。それは彼が瀬戸内の吉備王の血を引く大豪族で、河内王朝に発言力があったことからわかる。すなわちこの国造は大和大伴大連の肝いりでやってくるのだ。ここに大伴=倭王の可能性が見え隠れしていると言う者すらある。
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畿内に入った石棺はやがて大きく技術を向上させ、切石組み合わせから進化して原石くり抜き式の格調高い石棺へと変わって行くのである。
そして型式は二つの方向へ。
在地豪族クラスが用いるものと、王家が用いるものに格差がはっきりと現れる。
畿内の様式である長持型石棺の様式は中央の周辺実力者へと下賜され、王家はすべて家型くり抜き式に変わるのである。その最初の古墳が継体大王の今城塚だ。
丸みを帯びた以前の長持ち型石棺は継体大王の父方である近江三尾の一族や、藤井寺など周辺諸国で使用される。これは継体の地盤が地方豪族からという文献記事にフィットする。
そして型式は二つの方向へ。
在地豪族クラスが用いるものと、王家が用いるものに格差がはっきりと現れる。
畿内の様式である長持型石棺の様式は中央の周辺実力者へと下賜され、王家はすべて家型くり抜き式に変わるのである。その最初の古墳が継体大王の今城塚だ。
丸みを帯びた以前の長持ち型石棺は継体大王の父方である近江三尾の一族や、藤井寺など周辺諸国で使用される。これは継体の地盤が地方豪族からという文献記事にフィットする。
阿蘇ピンク石の登場はまさにその継体大王登場の時代、6世紀の出来事なのである。
だから赤い石棺は、同じ阿蘇凝灰岩の中でも、特に重要な政治的意味合いを持っていることになる。
それは「倭五王王権との区別」でもあろうか?
つまり継体の登場は河内王朝の終焉を意味した、そうかんがえられるのである。
ということは灰色石の舟形石棺で、直弧文を持っていた、大王の印である魚を使い、鉄剣に雄略大王とのえにしを刻むことができた東西の氏族・・・さきたまの王と筑紫の王は・・・ここにきて別の氏族にのっとられてしまう可能性が出てきたことになるだろう。
だから赤い石棺は、同じ阿蘇凝灰岩の中でも、特に重要な政治的意味合いを持っていることになる。
それは「倭五王王権との区別」でもあろうか?
つまり継体の登場は河内王朝の終焉を意味した、そうかんがえられるのである。
ということは灰色石の舟形石棺で、直弧文を持っていた、大王の印である魚を使い、鉄剣に雄略大王とのえにしを刻むことができた東西の氏族・・・さきたまの王と筑紫の王は・・・ここにきて別の氏族にのっとられてしまう可能性が出てきたことになるだろう。
雄略の石棺。
倭王、河内王朝最後の大王・ワカタケルの石棺。灰色石。
倭王、河内王朝最後の大王・ワカタケルの石棺。灰色石。
さてその前王・允恭・・・すなわち倭王済について語ろう。
彼の元に付き従ったはずの火の靫負部のことを。
彼の元に付き従ったはずの火の靫負部のことを。
つづく
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