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幾何学模様を多用し、始原的画像を旨とする装飾古墳は、線刻画や直弧紋石棺などのレリーフも含めると全国に約600基ほど見つかっている。
その分布は北西部九州を中心として南九州、東九州、山陽、山陰、近畿、北陸、関東、東北にまで広がっている。
その広範囲な分布は、大和地方のごく一部の人物のためにだけしか用いられなかった高松塚などの高句麗系、あるいは中国北部系の壁画古墳とは歴然と違う系統であるといわざるを得ない。

装飾古墳でもっとも古いとされている安福寺古墳(350~400年代)は意外かも知れないが、奈良県柏原市にある。
ここを最古として、装飾古墳の隆盛期は西暦4~6世紀の古墳時代まっただ中である。
高松塚やキトラが7~8世紀。すでに大和が政治の中心となっていた時代のこと。古墳時代も終盤から終焉を迎える頃であった。
その時間差は200年以上ある。

高松塚が発見された時代、学者の定説は、高松塚などの壁画を、辺境の地方豪族たちがものまねしたのだと、まことしやかに言われていた。
しかし古墳の編年があきらかになるにつれ、それはまったく大和偏重の見解ということがわかった。
間に200年の時間があることもさることながら、装飾古墳の隆盛期が大和の壁画よりずいぶんと早い時期のものだとわかったためである。

その後、大和の学者は極力九州などの装飾古墳研究にさわらなくなった。
都合が悪かったのだろうか?
それで、このジャンルは未だに、顔料分析くらいしか進んでおらず、ところが大和に起源が求められそうな直弧紋だけは論のはじっこに顔を出すこともあった。

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顔料の点でも、大陸から輸入された絵の具と、技術者と、使いよい道具で精緻に書くことができた壁画古墳の方は、繊細な線や微妙な色合いまでも表現できたため、装飾古墳の絵画よりも格段上のものと大和の歴史学者たちは決め込んでいた。しかしながら、本職の画家、芸術家たちが装飾の創造美を言い始めてから、ますます、かえって、装飾古墳は考古学の外側の対象物へとおしやられてゆくことになったようである。
学者は、お手上げだと言って無視するようになった。

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装飾古墳が一見、児戯にみまごうごとき幼稚な作風である理由のひとつが、制作者たちが充分な道具と絵の具を持たなかったことがあげられる。
細かな線を表現できる筆。
しっくい技術を知らず、顔料を直接岩肌に塗ったために絵は勢い稚拙なものになってしまう。
顔料も、自前のベンガラ、緑泥片岩、灰色粘土、木炭であり、しかも岩肌から流れ落ちぬように、粘着力の強い膠を混ぜた粘土質のものを用いた。
これでは精緻な絵は描けなかったことだろう。

けれど、それをカバーして上回るだけの独創性と呪力表現、もがりへの情熱という点で、見た者をとりこにしたと思えるのは、やはりこの形式が全国規模で拡大していくことから推測できるだろう。


高松塚とキトラが、今のところこのふたつしか壁画装飾がなく、モチーフに使われるひきがえるや月、ウサギなど主として中国道教に起源が求められるという点で、両者は共通しはするが、やってきた方向と運んだ人種にはまったく類似点が見つからない。
高松塚はお約束の画像をお約束の手法で見せた、被葬者個人的趣味の工芸作品であるが、装飾古墳の場合はあまりにも原始的である。なのに幾何学という高度な表現を使う。
前者はのちの秦氏系狩野派などの伝統職人芸であり、後者は現代のポップアートである。
どちらがいいとも言えない。どちらも素晴らしい技術。

ではこの技術はいったい誰が始めたのか?
それは装飾古墳の分布と重なって歴史に書かれる氏族だったはずだ。
いくつか代表的氏族を推理しておこう。

安曇。
筑紫国造家。
火の君。
そして大場磐雄博士が想定した鉱物集団多氏。
しかし、多氏と祖を同じくするはずの阿蘇国造家は装飾古墳を持たず、さらに分布の中に、天武時代頃多氏の居住地だった岐阜、中部地区が見あたらない。大和の大生部周辺にも見あたらない。
やはり百済と交渉もあり、古くは斯羅とも高句麗とも交渉のあった筑紫君がもっともふさわしいか。
編年は磐井の乱を契機に装飾古墳がすたれてゆくことを語っている。