銅鐸は時代をふるに従ってその大きさを増してゆくことは知られている。
またそこに刻まれた農耕作業や水田に舞飛ぶトンボ、里山にまれびとのごとくおりきたる餌を求める鹿の姿は今でも田舎でよく見られる普遍的日本の原風景であることも知られて久しい。
さらに、HPでも何回か言及した羽を広げたシャーマンの「羽振り」。これらが永遠に無事な里山のおだやかなの秋の景色を求める、災害なき一年への祈念であることも、諸兄ならずともご理解頂けることだろう。
念願は次第にそのよりましとしての銅鐸を大きくしていった。
それは当然祈願、祈念の、日々年々いやましたことを示唆すると言えるだろう。
すなわち・・・現実は稲作の安穏はたやすく成就できなかったことのあかしである。

念じれども、祈れども、自然の摂理はいやまして大小の破戒をもって弥生人を苦しめていったのだろう。

しかし。
これは誰しもあまり気がつかないことであるが、銅鐸の厚みには変化が起きていない。
銅にせよ、鉄にせよ、およそ金属加工物は巨大であればあるほどその厚みを増してやらねば、たやすく壊れてしまう。
にもかかわらず本国の銅鐸に限っては朝鮮式小銅鐸の厚みをそのまま維持し、最後まで同じくらいの厚みで継続した。これは非常な技術を要するはずである。

これに関してはどうしても半島ではなく、中国南部の鍛造技術なくしては語れないのではあるまいか。
森浩一も上田正昭もこの点で見解は一致する。
くしくも、南海の東シナ海を隔てた江南で、銅鐸時代の少し前にそうした高度の技術は高まっていたのである。
これは銅鏡の視点とはまったく別の製銅技術である。
この視点から考えれば、なんとも容易に、銅鐸薄化への技術導入が中国からダイレクトにあったことが理解できるのである。もちろんそれは九州の海人族の往復なしには考えられないことであろう。

吉野ヶ里から銅鐸鋳型が出たことによって、今や銅鐸は近畿以東の文化とは限らないことが言われて久しい。
出雲から出たおびただしい数の「入れ子」の銅鐸、そして銅剣。何重もの思いがそこにある。
日本海が九州玄界灘と一本でつながることの証といえよう。

そこにつけられ連続する×模様も、見方を広くすれば装飾古墳の連続三角紋の蛇のうろことされてしかるべきではなかろうか?出雲の海のウミヘビのうろこ。
脱皮する蛇の抜け殻にくっきりと残されるその×印が、脱皮=再生を感じさせたことは否定しようがないだろう。そして、羽振るシャーマンの「振り袖」状の羽がやがて日本のはじけるように若い女性が身につける着物の振り袖へと変化してゆくのだろう。そこにあるのはまさしく生命力。
鳥の持つ飛翔力。天へ舞い上がり、魂を運んだとされる鳥たちの力強くおおしげな羽ばたき。
それが欲しい!!と彼らも思ったのでは無かろうか。

厚みを変えなかった銅鐸がやがて近畿へと受け継がれ、地震と大風の多かった東国へと受け継がれたのも当然と言えば当然である。
科学の目で見ればその技術は近畿のどこへまず入っていったか・・・。
それは日本海の丹後。
丹後から由良の戸を通過して山背。
そして近江。
やがて大和へ。

また瀬戸内の河内から。

この時代まで、いや今しばらくは技術の流れは西から東でよいのではなかろうか?

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安本美典は大和の地名は北部九州から来たのだと喝破した。
だが、今日、ある研究家との会話で、その逆もあり得ないか?という発想がお互いに生まれてきた。

精銅、製鉄技術の代わりに近畿が北部九州に土産にした産物とはなんだろうか?
それが丹後が、九州からではなく独自に出雲から得た精銅技術だったとするならば、安曇族、宗像族と行った北部九州遠賀川の東側の海人族たちが日本海文化圏という有明海とは違う高度な技術を伝播しつつ日本海を登っていったことに想像がゆきつく。
丹後の技術は近畿に入り、近畿で製鉄が始まるまで、「たえなる調べ」「たえなる薄さ」の銅鐸と洗練され、吉野ヶ里の製鉄技術と交換にその知識は東から西へと逆行した可能性すらある。ある研究家はそうまで言い切った。至言である。彼がもうすぐ新しいページをアップする日も近いだろう。

銅鐸文化圏と銅剣文化圏の交流は確かにあった。
出雲は中庸にあって、今の富山県のごとく、文化と文化の「さかい」にあったのだ。

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