まず鉄を自前で作れる集団がいたかどうかは、遺跡に散在する遺物を見なければわからない。
寡聞にして大和、河内にそれが出ているのかどうか知らない。
これをご存じのかたは教えて頂きたい。
ところで大和の古墳は弥生時代後期からおしげもなく鉄製品を埋葬品としている。その数は広瀬和雄氏によればすごい数である。
大和古墳群には墳墓のそばに「培塚(ばいちょう)」をもつものがあるが、これはその被葬者がすごくちからを持つコレクター?だったことになる。培塚とは武器、宝物を納める専用の塚である。たとえばメスリ山古墳からは鉄ヤリで212本、マエ山古墳からは鉄剣119本、鉄刀24本などおびただしい数の鉄器が出るのであるが、北部九州の中期以前の墳墓のような製鉄に用いる器具をレプリカ的に大きくしたものは出ていない。
ゆえに少なくとも大和では製鉄段階から自前で作っていたとは思えないのである。
となると半島百済から加工前の半製品(鉄塊)を買い込んで、堺あたりで加工し?製品を買い上げていたと思われる。これも詳しいかたは教えて下さい。
それにしても、なぜ、あのように再利用することもなく、まして伝世することもなく、捨てるに等しい・・・墓に入れると言うことは破棄に等しいと森浩一氏も書いて不思議がっている・・・行為を続けたか??
そもそもその武器はなんに使っていたのか?
武器として使っていたのかということになる。
兵庫という地名があるように、どうやら朝廷は鉄器を威信だけのために収集していたのではあるまいか?
まさか人を切ったことがない刀ばかりが倉庫に?
これはひとえに半島からの脅威へのまじないのようなもので、数さえ集めれば安心する・・・やはりコレクションだったとしか思えまい。
実用品なら墓に入れても一本、二本で充分だろう。
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