おわりだのおみ
●『新撰姓氏録』(815)=左京神別上・小治田宿禰条・・・「石上と同じき祖。欽明天皇の御代に、小治田の鮎田を墾開(ひら)けるに依りて、小治田大連を賜ふ。」
●『和州五郡神社新名帳大略注解巻四補闕』治田神社条=「安康天皇の御代に武内宿禰の曾孫、石川俣合(いしかわの・またあい)の祖の楯(たて)が甘樫丘を開墾し、御歳神に祈願して水口祭を行い、秋穀が成就した。後、水田の辺に神殿を建てて大地主神を奉斎し、小治田神社と号した。今の豊浦神社がこれである。雄略天皇の御代に、石川楯は故あって遠国に退去させられ、以来、家地田戸は蘇我韓子宿禰に賜った。
●蘇我氏系小治田臣氏や物部氏系小治田連氏があるようだ。
●「安康記」=小治田は大長谷天皇(雄略)が兄の白日子王(しろひこおう)を生き埋めにしたところ両目がとび抜けたという記事がある。にも関わらずその後宮となったのは異常と言える。すると白日子が生き埋めになったその土地を、安康時代には妃の大臣・許勢男人(こせの・おひと)娘・沙手姫が譲り受け屯倉としていた場所を、その後今度は、推古女帝が譲渡されて初めてのもがりを行い、そこには蘇我氏と物部系石川楯がはいっていたことになる。この両氏族とえにしを結んだのが小治田一族と思われ、その出身は・・・
●小治田=小墾田=尾張田・・・「尾張連の開墾した田と解し、小墾田采女を貢進したのが尾張連氏とみれば、尾張連吾襲(あそ)が活躍する葛城玉田宿禰事件に小墾田采女が突然登場する疑問も氷解する」
「『続日本紀』神護景雲二年十二月甲子条には、尾張山田郡人・小治田連薬ら八人へ尾張宿禰賜姓を記」す。{平林}
●もうひとつ小治田での事件。
持統天皇紀=亡き天武天皇のためにここいらに無遮大会(かぎりなきおがみ)を五寺に設ける。古宮土壇、豊浦比定地の根拠となった。
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