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小墾田宮・小治田宮

◎日本最古の寺院跡
 明日香村豊浦の広厳寺。豊浦寺とも、向原(むくはら)寺あるいは桜井寺とも呼ばれた日本最古の寺院の跡である。いま広厳寺というのは向原寺の音から転じたものであろう。
欽明天皇十三年(552)に百済の聖明王が仏像、仏典を献じたとき、馬子の父稲目が飛鳥の向原の家を寺としてこれを信奉した。だが、その直後に疫病が流行したため、反対派の物部尾輿(おこし)らにこの寺は焼かれてしまったのであった。
◎蘇我氏擁立の女帝
 崇峻天皇が非業の死をとげた翌月、敏達天皇の皇后であった豊御食炊屋姫(とよみけかしやひめ)尊が即位したのは、この豊浦の地であった。推古天皇である。豊浦は蘇我一族が仏教の渡来の初期に苦杯を喫した地なのである。それだけにわが世の春を迎えた蘇我氏が、わが一族の擁する女帝の都を豊浦に設けたのは当然であったかもしれない。
 ともあれ豊浦宮での推古女帝の即位によって、蘇我氏の権勢はゆるぎないものになった。 蘇我氏の興隆は、そのまま仏教の興隆でもあった。推古二年に女帝は三宝(仏・法・僧、つまり仏教)を興し栄えしむべしという大詔を発した。これによって群臣は競って仏舎を造営したという。仏教はついに国家的宗教にまで昇格したのだ。http://www.begin.or.jp/sakura/miya14.htm

 豊浦宮  

 飛鳥時代の始まりは、唐突にやってきます。
592年(崇峻5年)11月、大臣の蘇我馬子によって崇峻天皇(すしゅん)が殺害されるという事件が起こります。そしてその結果として、我国最初の女帝が即位することになりました。推古天皇(すいこ)です。

 推古天皇が即位したのは、事件から僅か1ヶ月後の12月のことでした。宮殿は、蘇我稲目の邸宅が在ったとされる豊浦に定められました。この慌しさから考えると、宮は蘇我氏の私邸(当時、稲目はすでに亡くなっています。)を改造した程度のものだったのかも知れません。
 推古天皇から後、宮殿は飛鳥の中に次々と営まれるようになります。後世の我々は、それを飛鳥時代と呼んでいるのです。HP『飛鳥の宮』このHPURLはこのブログではリンクできないURLを用いています。


「『紀』によると、豊浦宮(高市郡明日香村豊浦。今、豊浦寺がある)に即位した最初の女帝推古は、その十一年(603)十月に小墾田宮に遷宮し、ここを正宮とした。宮殿の構造は、南門・庁の建つ庭・大門・大殿等の他に、苑池もあったようだ。同宮は推古天皇崩御の後も放棄されず、舒明天皇の后だった宝皇女=皇極天皇も即位元年(642)十二月に小墾田宮に遷居し、二年四月に飛鳥板葺宮に移るまで権宮(カリミヤ)として使用している。推古天皇は小墾田宮で死去したと見られ、その南庭で殯(喪儀)が催されていて、死穢のことは何ら問題となっていないのも注目される。」
平林章仁『七世紀の古代史*王宮・クラ・寺院』第一章「敏達天皇系王族と広瀬部」

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●推古女帝に始まる小墾田宮は百数十年間存続した。
●日本最初の殯の宮があった。
●にもかかわらず死者への禁忌もなく存続した。
●小墾田は蘇我氏が進出し、”ゆえに”地名を『豊浦』と言った。
●蘇我氏以外にも蘇我氏子孫とされる小治田氏もここに進出した。
●小墾田宮跡の正確な位置は、明日香村雷丘東方遺跡の中にある井戸跡から「小治田宮」と墨書された十余点の土器が出たことから、ほぼ飛鳥川北東岸および対岸周辺と確定された。(たったそれだけの理由で確定された。)


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