d8ad6a2f.jpg

押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

●者米谷 読み方ハーベイ谷
中国雲南省とベトナム国境のヤオ・タイ・アールー・ハーベイ族が住む棚田の村。
日本の棚田の数百倍の面積を占める、山塊の斜面に広がる棚田の景観は圧巻。
稲作の歴史を調査している国立歴史民俗博物館の西谷大教授、環境省地球環境研究所・佐藤洋一郎氏が紹介した、おそらく?稲作日本渡来の発信地。

環境省 地球環境研究所HP
http://www.humeco.m.u-tokyo.ac.jp/envr_p/working_paper/yunnan_report.pdf

・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本の棚田風景は大昔からすでにあったものではなく、主に、近世江戸時代に発展していった。しかし、原型は水田稲作開始当初から始まっていたのだろう。というのも、初期の水耕稲作に必要な「ゆるやかなわき出す水」があるのは扇状地だからだ。
平地での栽培は弥生時代の、河口付近が湿地帯で安定せず、常に決壊のおそれがあった時期には難しかっただろう。棚田はその点、天然の蛇口を持っていた。山のわき水を利する方が、コントロールしやすいのだろう。

者米谷の比較的ゆるやかな流れの上流河川では、「分水木」が使われている。つまり長い丸太に溝をいくつか作り、一時的に水をプールした小さな「ダム」から各田んぼへ、平等に水を分配する工夫である。
これは明治時代以降に日本各地で「分水施設」と分水水路を作っていた扇状地の棚田とまったく同じ工夫である。

者米谷の人々は広大な棚田でできた米を売っているわけではなく、すべて個人消費のためのものである。したがってこれは定住的水田の中でも、全消費型水田だと言える。
彼らはそのほかに野菜、トウモロコシ、キャッサバ、レモングラスなどの換金作物で生計を立てる。米は売り物にせず、畑で作る野菜、雑穀で換金するのである。

米の共通種としては80㌫までも、中国と日本の米は共通性が見られる。

水耕稲作については、これまで半島からの経由説が中心で、そこから一歩も出なかったが、今後は雲南省周辺の江南地域からのダイレクトな伝播説が主になっていくだろう。
一般に、水田耕作は寒冷期になって南下したと言われてもいるが、稲は南方植物であり、むしろその派生そのものが南方で起こり、そのまま海を渡って温暖な列島に先に入るべきなのである。乾燥し温度の低い半島中北部以北から来たとは考えにくい。


押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!