廿日壬午。於神泉苑修御霊会。勅遣左近衛中将従四位下藤原朝臣基経。右近衛権中将従四位下兼行内蔵頭藤原朝臣常行等。監会事。王公卿士趣集共観。霊座六前設施几筵。盛陳花果。恭敬薫修。延律師慧達為講師。演説金光明経一部。般若心経六巻。命雅楽寮伶人作楽。以帝近侍児童及良家稚子為舞人。大唐高麗更出而舞。雑伎散楽競尽其能。此日宣旨。開苑四門。聴都邑人出入縦観。所謂御霊者。崇道天皇。伊予親王。藤原夫人。及観察使。橘逸勢。文室宮田麻呂等是也。並坐事被誅。寃魂成。近代以来。疫病繁発。死亡甚衆。天下以為。此災。御霊之所生也。始自京畿。爰及外国。毎至夏天秋節。修御霊会。往々不断。或礼仏説経。或歌且舞。令童貫之子粧馳射。膂力之士袒裼相撲。騎射呈藝。走馬争勝。倡優戯。逓相誇競。聚而観者莫不填咽。遐邇因循。漸成風俗。今茲春初咳逆成疫。百姓多斃。朝廷為祈。至是乃修此会。以賽宿祷也。『日本三代実録 巻七』
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/chrono/08630520.html

御霊会(ごりょうえ)主に平安時代以降、祇園信仰とともに輸入された信仰観念。
中世の信仰は民間から貴族社会へ伝播する事例が非常に多く、これは重要。民間がいち早く信仰(言い換えると迷信であるが)を海外から取り込む原因は、それだけ衆生が苦しんでいた証拠であるし、かつ、海上の道が古くから開かれていた証拠となるし、さらに民間にまぎれる可能性の高い修行者、行人、うばそくたちが自由人として跋扈できた証拠である。

御霊会の意味合いは、疫病の退散祈願にあった。
都市も農村も替わりなく、往古、疫病による死者があとを絶たなかった。それを御霊という唐天竺伝来
の疫病神のせいにしたのが始まり。歌舞音曲、晴れ着、弓を射る祭りでの射的、相撲大会、騎馬射的、テキヤの露天、盆踊り、田舎芝居、田舎浄瑠璃などの始まりのすべて・・・つまり現代に引き継がれてきた祭りの賑やかさ、ハレ観念の多くが御霊会に始まっている。祭りが全国、地方へと広がる一因。
そこにはいわゆる芸能の民である回遊する民の存在は欠かせない。猿丸踊りなどの盆踊りの基本所作もこうしてひろまる。

貞観御霊会は『日本三代実録』が記録した貴族社会の慰撫行事の記録である。
その実施は貞観五年(863)五月二十日
この際、御霊として選ばれたものは人間である。人間が神となった最初の記録として重要。

その人々は・・・
●崇道(すどう)天皇・早良親王
●伊予親王
●藤原仲成
●藤原夫人吉子(よしこ)
●橘逸勢(はやなり)
●文室宮田麻呂(ふんやの・みやたまろ)
の六名である。

実在の人びとが平安時代には早くも御霊すなわち祟る神となったという記録。
もっとも、中国ではすでに関羽という前例など、大昔から人が神になることは珍しいことではなく、日本でも記録にはなくても、神に実在の人のイメージが入れられていたと考えてもいっこうにさしつかえはないものと断定する。

早良親王は、天智天皇直系の桓武天皇の皇太子。半島王室から嫁いだ高野新笠(たかのの・にいがさ)の子。つまり天武系ではなく、天智と百済王家の血を受け継ぐ人。桓武の長岡京遷都に反対する勢力・大伴継人(つぐと)、家持、佐伯高成らの謀略で桓武降しが計画され、次期天皇として持ち上げられたために、謀反人として廃嫡され、乙訓寺に幽閉されたうえ、食事まで禁止されたあげくに淡路へと搬送される途中淀川の船上で飢え死に。遺骸は都には返されず、そのまま淡路に。「ゆえなくも死す」の法則どおりの怨霊候補ナンバーワン。ジャストタイミングで延暦九年秋、都に「裳疱(もがさ=痘瘡の一種)が蔓延、元凶にされた。

伊予親王は、桓武第三子。母は藤原南家の娘・吉子。ライバル式家出身の仲成から謀反の嫌疑をかけられ吉子とともに幽閉。絶食ののち服毒死させられる。

その藤原仲成も、父種継暗殺で従五位まで昇進するも、妹・薬子(くすこ)とともに嵯峨天皇に翻意を示し平城上皇とともに朝廷並立の謀反を犯す。

橘逸勢は三筆のひとり。最澄・空海とともに遣唐使のひとりであるが、承和の変を起こす。鞭打ちの末伊豆に配流の途中、遠江沖で病没。

文室宮田麻呂は承和の筑前守だったが職を解かれた。理由は新羅商人への賄賂贈与。これだけ小者である。

貞観御霊会開催のときの権力者は藤原良房。妻は嵯峨天皇の娘・潔姫(きよひめ)。南家政敵の式家出身。七歳の傀儡君主・清和天皇を謀略で立て、摂政ちして権力をほしいままにした。ゆえに祟る神には彼の政敵ばかりが。

もともとこの御霊会は、勢力争いには弱い藤原北家の繁栄祈願が目的だった。それを良房が牛耳るほど式家は影響力を持っていた。
当初、御霊信仰は祟りを認めることになり、権力者には不評だった。しかし、民に実名をうわさされてはいかに摂政と言えども世論は怖かったらしく、いたしかたなく神の名を借りて御霊として一括するよりなかった。
このアイデアの背後にいたのは薬師寺万燈会(まんとうえ)創始者の僧・恵達(えだつ)。
比叡山の天台、高野山の真言によって衰退する一方の南都仏教再興のため過去の祟り封じの寺院・薬師寺の神の復活を画策した。(山田雄司)

結果、御霊信仰は最大の流行となり、それはまた新しい対立を朝廷内に生んでゆくこととなった。これが日本人の「まつりごと」観のすべてである。人間の欲と業が生み出す悲喜劇が、つぎつぎにさらに強力な神を望み、作り出し、輸入され、そうして海外の文化も導入されて行った。そんなものだよ、人間なんて。
That is All!!
This is Life.
This is MonkyLike,We are the Ape! hohou!!


参考文献 山田雄司『跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史』吉川弘文館 2007




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