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続いて登場する日本海の首長は丹後と若狭である。

丹後地方の弥生墳丘墓はほぼ方墳であるが、出雲とは違って四隅を突出させない。出雲から古志への日本海ルートの真ん中にありながら、ここだけは別の方墳文化が栄えた。これを方形貼石墓という。
これは北部九州における方形周溝墓をやや巨大化したものだと考えられ、丹後と北部九州(筑紫国周辺)の関係が深かったことの証拠となる。しかし、出雲と同様の、墳丘斜面に貼石をほどこす風習が伝わっており、さすがに隣組で、技術の伝播はあったようである。
いずれにせよ、丹後は非常に独自性が強く、かつそれが広がってゆかなかったという特徴が濃厚である。

弥生時代に、北部九州以外で墓に副葬品を持っているのは丹後地方だけだ。つまり丹後は独自に単独で大陸との交渉をしていた可能性が高い。その副葬品も特急クラスのものばかりで、一時的に非常に強力な独立国を形成していたと読み取れる。
有名な大風呂南1号墳から出土した副葬品は、富山湾から新潟にかけて多いヒスイが出るし、鉄製工具類、貝釧路などが多々出土。ヒスイに関しては、単独の大陸交流で手に入れた可能性もあり、ここが本州で最初に弥生文化が入った場所だったことを物語っている。

丹後は玉造遺跡を擁して、王国というよりも古代ギリシャや西欧のゲルマン社会のような中世共和体制を形成していたと見られ、中国のような専制君主国ではなかったと考えられている。しかし、そこまで発展しなかったのはいくつかの理由が考えられれており、まず周辺の日本海諸地域に挟み込まれた立地条件が不利だったこと。一豪族としては海外交易にはとてつもなく金銭がかかり、それをまかなえるほど力がなかったこと。強力な連合に組せず、一匹狼だったこと。などである。

弥生時代後期後半になって、急に巨大な墳墓が出現する。内陸部、峰山町と網野町の境目に突然造営された赤坂今井方形台状墳丘墓がそれである。つまりこれが丹後唯一の、後期後半に丹後が専制君主的王が現れたことを示す墳墓なのである。そして、その後、そのような古墳は現れず、同じ内陸部・峰山町の網野銚子山古墳や太田南古墳、蛭子山1号墳のような大きな前方後円墳の時代へと変化する。これは弥生から古墳へと時代が変わる間に、丹後には赤坂今井を継ぐ王が出現しなかったということになり、丹後も出雲同様衰退したか、大和に協力して移動したかということになるだろう。
事実、纏向からは丹後の土器もでてくるわけだ。
しかし丹後が違うのは中国の由緒ある方角規矩鏡や青龍年入り神獣鏡をもらえたところにある。若狭湾はもともと海の民の住み着いた場所だったのだろう。古くから海人族がいて、やがて5世紀前後には伊根から橋立にかけて海部氏や、日下部氏といった海人族の管理者が登場してくる。いわゆる浦島太郎の本拠地である。これらの鏡はどちらかといえば華南好みの風水・神仙思想が色濃く出た神秘な呪術に関連する模様を持っているから、丹後の首長は呉とも交流したか?

浦島のモデルともされる天皇のナビゲーター・ウズ彦(うずひこ)もやはりはやくから天皇に帰順し、やがて倭直一族の祖となったように、丹後は早くから栄えたが、連合組織に入らなかったためにはやくから帰順せねばならない運命にあった。それは倭五王時代にすでに日下部氏が派遣されたことでも理解できるだろう。その後、中部地方を縦断した太平洋側の尾張氏と同族化しているのは、継体大王擁立が関わっていると思われる。尾張氏は物部氏と並んで熊野や東海、さらには南九州にかけて狗奴国を管理する大氏族で、継体大王の影の宰相とも言われる。つまり日本海から新しい血を王家に入れた氏族で、大繁栄し、東国にまで版図を広げてゆく。

弥生時代の首長が誰だったかはまったくわからない。
しかし古墳時代の首長はあきらかに海部、日下部関連であろう。用命天皇のきさきの乳部でもあった竹野町間人地域に巨大な前方後円墳が存在する。また11代垂仁天皇のきさき、日葉酢媛の出身地が丹波だったとされている。後者は実在が怪しまれるが、逸話が残る限り、若狭から丹波にかけては少なくとも5世紀以降から中央とのえにしが深い地域だったと見てよかろう。

若狭地方は丹後に比べると群集墳が多く、6世紀になっても立派な副葬品を持っている。丹後のようには消えてなくならず、大和朝廷にも取り入っていたと考えられる。これらの被葬者は籠神社の海部氏の系列ではないか。

なお、丹後も若狭も出雲・吉備同様塩の産地であった。塩は重要な古代史のキーポイントとなる。

「丹後は邪馬台国連合に組せず、敵対勢力だったかも知れない」と石部正志は書いているが、筆者はそうは思わない。丹後は海人族で、むしろどこにも組しなかった独立的共和社会だったと思う。なぜならこれまでの海人研究で、彼ら海の民の独立独歩性は非常にきままで、気楽だったと痛感しているからである。なにしろ船を手繰れる氏族は、源平合戦でさえあっちにつき、こっちにつきだったのである。


この章の参考文献 甘粕 健編 『倭国大乱と日本海』所収 石部正志「弥生・古墳時代の丹後地方」 2008



次回古志の首長


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