弥生時代に全盛期を迎え、その後衰退してゆく地方共同体を、日本海を中心に少し考古学的見地から眺めてみたい。
出雲、丹後、若狭、越前、越後、そして越中という、大和や九州とはちょっと違う古墳のある地域である。
第一回目はまず出雲から始めてみたい。
出雲、丹後、若狭、越前、越後、そして越中という、大和や九州とはちょっと違う古墳のある地域である。
第一回目はまず出雲から始めてみたい。
出雲と言えばまず糸巻きのような形の四隅突出型(しぐうとっしゅつがた)墳丘墓が知られている。この墓の様式は弥生時代中期後葉に中国地方山間部や出雲地方に出現。後葉後期には対岸の隠岐に伝播し、北陸へ。ちょうど出雲で王家が生まれた頃に合致する。
北陸に最初にこの形式が現れたのは、福井市小羽山(おばやま)30号墳だった。出雲とは違うところは墳丘に貼石を入れ込まないこと。しかし形状が長方形で出雲の西谷3号墳にそっくりなので、出雲の勢力が北陸へ攻め込んだのではなく、日本海を通じてやりとりする共栄圏のひとつだったと考えられている。西谷の埋葬施設の上からは丸く磨かれた朱のついた石斧が出たが、小羽山の同じ場所からも丸く磨り減った丸石が出ており、両者はやはり平和な交流があったと考えられる。
北陸に最初にこの形式が現れたのは、福井市小羽山(おばやま)30号墳だった。出雲とは違うところは墳丘に貼石を入れ込まないこと。しかし形状が長方形で出雲の西谷3号墳にそっくりなので、出雲の勢力が北陸へ攻め込んだのではなく、日本海を通じてやりとりする共栄圏のひとつだったと考えられている。西谷の埋葬施設の上からは丸く磨かれた朱のついた石斧が出たが、小羽山の同じ場所からも丸く磨り減った丸石が出ており、両者はやはり平和な交流があったと考えられる。
出雲の共栄圏は宍道湖の東西の二箇所(西谷古墳群のある斐伊川河口域と意宇(おう)川・飯梨(いいなし)川河口域)から出て、お隣の伯耆、因幡、若狭湾を飛ばして古志へ広がって行く。また斐伊川からは南の吉備地域へも山地を越えて伝播してゆく。これが四角突出型墳丘墓の拡散経路に合致する。(下の図)
吉備との関係は吉備型埴輪である特殊器台が、山陰全体では珍しいのに、出雲では出ること。その土を調べてみると山陽地方の土が使われていたことなどから、少なくとも葬礼に吉備から祭具が運ばれる関係を、出雲の首長が持っていたと考えられる。西谷墳丘墓では吉備のほか、隣の古志や丹後でも使われる土器形式もいくらか見られ、その割合は図の通りである。
吉備との関係は吉備型埴輪である特殊器台が、山陰全体では珍しいのに、出雲では出ること。その土を調べてみると山陽地方の土が使われていたことなどから、少なくとも葬礼に吉備から祭具が運ばれる関係を、出雲の首長が持っていたと考えられる。西谷墳丘墓では吉備のほか、隣の古志や丹後でも使われる土器形式もいくらか見られ、その割合は図の通りである。
古墳時代になるとこの出雲型の方墳は次第に衰退してゆく。これは吉備の楯築型、丹後の前方後方墳、古志の出雲型などの共通する特徴であり、繁栄の時代から3世紀後半の前方後円墳拡散とリンクしている。
もうひとつ日本海側のクニグニの考古学的発掘から共通する動向は、地方首長の独自の大陸との交易があったのが、やがて畿内とのえにしへと移行してゆくことである。出雲もその例からもれない。
いわゆる出雲の斐伊川周辺地域の人々は日本海とも吉備とも通じており、日本海側は意宇川周辺経由でつながっていたと思える。意宇地域から飯梨川地域は、地名が示すように多氏あるいは古墳・土器製作者である土師氏のいたところであろう。いわゆる意宇地方は隣接する鳥取の伯耆・因幡と直接交流しており、意宇経由で斐伊川河口へと産物が持ち込まれたのだろう。
斐伊川は当時の河口が今よりもかなり北西にあり、宍道湖の西端へ流れ込んでいた。ちょうど神庭荒神谷や出雲大社の現在ある場所あたりが中心地だったことになる。残念ながら今のJR出雲市駅前はややさびれてしまっていて、松江が中心地となっているが。
それは神話が語る「国譲り」と非常に関わりが深いのだろう。西出雲は東出雲よりかなり早くに衰退し、東が古墳時代までかろうじて勢力を維持したのに、西は弥生時代のうちに消えてしまったのだという。渡辺貞幸はこの本の中で、出雲などの四隅突出型墳丘墓や方墳を持つ氏族は、古墳時代には大和に協調させられ、かなり屈辱的最後だったと推測しているが、筆者は出雲から日本海の地域は、方墳文化とも言え、彼らはかつては狗奴国連合だった可能性が高く、三国志時代の国をあげての外敵対抗政策の必要性を、むしろ進んで受け入れ、狗奴国と女王国(邪馬台国連合)との利害的な団結を選ばねばならなかったのだと思いたい。それは華南の呉が滅びてしまった西暦280年以降には、ぴたりと地方の独自の墳丘墓が大和的前方後円墳へと変貌してゆくことから、思いつくことなのである。
ところがその時代以降になっても、太平洋側の東海から東国では前方後方墳が隆盛し、やがて愛知の尾張氏の大古墳である断夫山古墳という大先方後円墳が完成すると、次第に前方後円墳へと変化してゆく工程と、非常に見合っていると考えるのであるが、いかがだろうか?
それは神話が語る「国譲り」と非常に関わりが深いのだろう。西出雲は東出雲よりかなり早くに衰退し、東が古墳時代までかろうじて勢力を維持したのに、西は弥生時代のうちに消えてしまったのだという。渡辺貞幸はこの本の中で、出雲などの四隅突出型墳丘墓や方墳を持つ氏族は、古墳時代には大和に協調させられ、かなり屈辱的最後だったと推測しているが、筆者は出雲から日本海の地域は、方墳文化とも言え、彼らはかつては狗奴国連合だった可能性が高く、三国志時代の国をあげての外敵対抗政策の必要性を、むしろ進んで受け入れ、狗奴国と女王国(邪馬台国連合)との利害的な団結を選ばねばならなかったのだと思いたい。それは華南の呉が滅びてしまった西暦280年以降には、ぴたりと地方の独自の墳丘墓が大和的前方後円墳へと変貌してゆくことから、思いつくことなのである。
ところがその時代以降になっても、太平洋側の東海から東国では前方後方墳が隆盛し、やがて愛知の尾張氏の大古墳である断夫山古墳という大先方後円墳が完成すると、次第に前方後円墳へと変化してゆく工程と、非常に見合っていると考えるのであるが、いかがだろうか?
出雲も吉備同様、敵対していた女王連合(中心地はあくまで北部九州で、大和の纏向は女王の祭祀場?)と一丸となって団結し、このさいやむなく働いたのだろう。すでにすべての技術は大和にご披露してしまった。けれど各地の情報は手に入れられ、文化交流が芽生えた。纏向という全国の技術者が集結した大和盆地の、三輪山にも、かつての先祖である西出雲のオオクニヌシが大和大物主として祭られた。しかし卑弥呼が死んで、再び倭国は乱れたと魏志は書いている。出雲はいつまでも方墳文化を捨てず、石室だけを大和式に改良した。ここに女王でなければなにをするかわからないぞ、という出雲の怨念を見るのは筆者だけだろうか?
その後、宗女壱与が共立されると、今度こそ、日本海の特殊古墳群は消えてしまう。流れは河内王朝へと、羽曳野の巨大古墳の時代へと流れ込み、中国もまた魏が晋に、晋が滅び争乱の中から、倭五王朝貢を書き残した宋が統一してゆくのである。
こうして二つの連合はひとつになり、華南の南朝は滅び、邪馬台国も過去の噂になっていったのだろう。
その後、宗女壱与が共立されると、今度こそ、日本海の特殊古墳群は消えてしまう。流れは河内王朝へと、羽曳野の巨大古墳の時代へと流れ込み、中国もまた魏が晋に、晋が滅び争乱の中から、倭五王朝貢を書き残した宋が統一してゆくのである。
こうして二つの連合はひとつになり、華南の南朝は滅び、邪馬台国も過去の噂になっていったのだろう。
なお、『古事記』ではヤマトタケルが出雲タケルを滅ぼした場所は斐伊川河口部であり、『日本書紀』では出雲振根(いずも・ふるね)が弟の手引きで崇神(すじん=みまきいりひこ)60年秋に神宝を奪われる塩冶(えんや)の止牟夜の淵(ヤムヤノフチ)もやはり西出雲・斐伊川河口部である。
ちなみに塩冶地名は製塩だろう。塩の輸出は国力を強くする。大陸とも塩ならば堂々と渡り合える。
西谷古墳群の首長はこうして大和に帰順させられたことになる。この事件が、狗奴国と女王国の勢力図を変えるきっかけになったのだろうか?いや、その前に、すでに隣国の鳥取・青谷神寺地では倭国大乱の痕跡が出ている。これは卑弥呼共立の前の時代。1~2世紀の遺跡である。果たして誰が日本海側を蹂躙して行ったのか?それが大和の勢力だったという証拠はまったくない。また大和にもそのような武器を持った人物の痕跡は出てこない。出るのは200年以上の空白があって、ようやく河内王家の遺物にしか出現してこない。ところが河内王朝と大和朝廷、河内王朝と邪馬台国には、一切つながるべきところがないのである。ただ、出雲の国魂オオクニヌシ神霊を隔離した出雲大社だけが、巨大な姿で、日御碕からの西日を今日も受けているのみである。生き延びたのは意宇の多氏と野見宿禰の子孫のみ。それも古墳土木の技術屋として。古い祭祀の継承者として・・・。
西から東へ、瀬戸内を駆け抜けていった謎の河内王朝はオオクニヌシを婿に迎えたスサノオを指しているのか?
あるいはそれは大和の国魂であるオオモノヌシだったのか?だれも知らない。
あるいはそれは大和の国魂であるオオモノヌシだったのか?だれも知らない。
この章の参考文献 甘粕 健編『倭国大乱と日本海』所収 渡辺貞幸「四隅突出型墳墓と出雲社会」2008
植田文雄 『前方後方墳の謎』学生社 2008
植田文雄 『前方後方墳の謎』学生社 2008
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コメント
コメント一覧 (2)
このあたりはスサノオノミコトに結びつくような伝説がおおくて
とても興味があります。
kawakatu
が
しました
安来地名は風です。安来はたたら製鉄。安来節にもひょっとことおやふくが出てきますが、あの仕草をどじょうすくいと言うのは、どじょうすくいが砂金をとって漉すことの隠語だったからです。ですから須賀も鉱物地名だったと読み解けます。渡来系技術者の祖であるスサノオが祀られるのは当然ですし、須賀社の氏子一族はおそらく鍛冶関連でしょうね。情報感謝いたします。^^
kawakatu
が
しました