年内は書かないつもりだったが、時間が開いたので。


持統天皇紀に云わく
「、『日本書紀』に、持統天皇の五年(691年)八月、長雨が続いたため使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとあり、『日本書紀』における諏訪大社初見の記事である。」
http://marishi.weblogs.jp/blog/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E7%A4%BE/

「『日本書紀』にある持統天皇が天候回復を祈願した、須波神、水内(みのち)神という、タケミナカタとは別に中央に認められた風水神だったのではないだろうか。」
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/Mijakuji.html

諏訪にタケミナカタを祭ったのはそらく持統天皇であろう。
それは蛇神であったが、なぜそうしたかと言えば、諏訪湖を巨大な風穴に見立て、そこからあらゆる災厄を招く風が吹き出てくると考えられていたからだろう。このとき、持統が「風の祝(かぜのほおり・ふうしゅく)として送り込んだのは多氏血脈を自称した阿蘇氏であった。

この阿蘇の風祝はそのまま諏訪に居つき、神長官守弥氏となり、諏訪氏となり、やがて金刺氏と名乗ったといわれている。

タケミナカタは蛇神だという。
出雲でタケミカヅチに逆らって、両腕をもがれ、日本海を富山湾あたりから諏訪へ逃げ込んだとされた海人族・安曇の長だろうが、そのあらぶる蛇=イカヅチとしての神格は、在地の縄文の人々と和せず、諏訪湖の上下社分離の元となった。

この崇りなす蛇神の、タケミカヅチとは別のイカヅチ=雷としての神格こそが、諏訪湖から大風が吹き出すという信仰の大元となる。しかるに在地の人々はカゼキリ(薙鎌神事、鉈や鎌を樹木に打ち付ける)の神事を執り行ってきたが、その神事はそもそも陰陽五行から来ており、金克木・・・金気が木気を押さえ込むというもの。
風は木気であることから、金属の鉈でそれを押さえつけるという意味がある。

持統五年の前後、記録は台風が吹き荒れたと書いている。だから阿蘇大祝を呼び寄せ、風を鎮魂させようとしたのである。それは風=蛇であり、水害を引き起こす竜神を抑えようという観念から出た信仰であろう。雷=蛇=竜神。

中臣氏の象徴であるタケミカヅチもまた雷の神である。その新しい神が、出雲~玄界灘を本拠とした海人族の古い雷の神を追い出す構造には、海人族・・・旧勢力からの中津国奪取の意味が込められている。それほどに出雲の海人族は強かったのであろう。しかし中臣氏は古くは祭祀一族であり、物部氏の中の一派に過ぎなかったはずだ。しかるにこの国譲り神話は記紀成立にいかに中臣氏=藤原氏が要求をしていたかの証明となるのかも知れない。藤原不比等が政権を奪取した時代だったからこそ、タケミカヅチは国譲りに登場する。実際には無関係だったはずである。

国譲りやタケミナカタの追放が実際にあったなら、出雲にはそのいくさの痕跡がなければならぬ。たとえば神庭の荒神谷に埋められていたおびただしい数の銅剣・・・だが、いくさをした戦場、血塗られた痕跡はそこにはまだ出ていない。

神話はいくらでも創作できる。記録もいくらでもうそが書ける。
しかし考古学的な痕跡がなければそれは容易には認めがたくなる。

阿蘇氏が本当に自称するようなカムヤイミミの子孫だったかどうかは定かでない。自称もいくらでもできる。阿蘇氏が九州阿蘇に入って国造となる時期も、やはりそれほど古い時期ではなく、それも天武や持統の国家安堵の要望から送り込まれたと見てよかろう。この国家ができあがる時期、全国の神社が国家神を祭るようになり、さらにそこが屯倉に変わる官庁となったと見てよかろう。神社は税調の倉庫であり国の役所の派出所だったと言える。いわゆる今の大社や名神社こそは県知事のいる県庁であり、同時に国家の出張所でもあった。国造とは税調の徴収者であり、国の機関だったのだ。

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