Fx(a):Fy(b)=Fx(b)-1(y)

この数式はクロード・レヴィ・ストロースの考え出した「神話の普遍公式」というものである。

さて、その深い意味合いは彼の著作を読んでいただくとして、一言で説明すると・・・。

「神話が話の進行につれて、登場人物の機能や性格をたくみに入れ換えてゆくことによって、現実世界の矛盾をうまく説明しようとするありさまを、数式にあらわした」(鎌田東二『隠された神サルタヒコ』大和書房 1999)

と言われてもまだよくわからないだろうと思う。

神話はシャーマン的存在であった「語り部」たちによって語られる。
そのシャーマンとは非日常的存在であり、それが同じく非日常的な状態に追い込まれた常人・・・病人や精神を病んだりしたものを、神からの預言や呪術でもって治癒する立場にある。そのためにトリップし、日常には絶対に起こりえない状況を作り出す必要がある。それは病者の立場を潜り抜け(くぐ)、聖なる領域である憑依の局地に没入し、精霊と交信し、ゆるがぬ言葉を貰い受けるという一大カタストロフィ=日常性、正常性の大変革を引き起こそうという行為だ。

シャーマン、シャーマニズムとはそもそもがカタストロフィ構造で支えられてきた。だからその尋常でないシャーマニズムを実行しうる「人間」とは、

1 甚大なる努力と苦行の結果そうなった
2 天性にそれができた
二種類の人間に限られた仕事だった。

前者はつまり修験者などの荒行、苦行であり、後者は霊能力者ということになる。

シャーマンや語り部、詩人、ミュージシャンなどには共通して、こうしたカタストロフィを突如として実行する者が多い。神話もまた、そうした突然の話の飛躍が起こる。時空を超え、あらすじや登場人物が突然大転換する。これは世界中の神話がそうである。

正常な分析者は、だから神話を分析するために科学としての位相幾何学(トポロジー)をもってこなければ、従来の構造主義の範疇をうまく超えられないことに気づかされるのである。勢い、分析自体も非常に一般には半呪文となってゆかざるを得なくなる。霊的なものを信じない人でも、いきおい論考がどこかしら跳躍しすぎ、霊的な世界に近づいてしまう。実に科学にはやっかいなしろものが神話や呪術の世界である。

つまり神話とははなっから、そうした矛盾した突飛な飛躍を用いねば、論理的には矛盾している、矛盾によってできているとさえ言えるこの現実世界(うつつ)をうまく描けないものだと言えるだろう。

そうした神話構造の中から生まれてきたのが「トリックスター」である。

人間その存在自体が実は矛盾に満ちている。
大自然の日常的道理からけたはずれにかけ離れている。
矛盾に満ちて、人が人を殺したり、生んだ子供を殺したり、捨てたり、野菜ばかり食べてみたり、あるいは人を拘束し苦しめたり・・・する。
地球の摂理、宇宙の摂理・・・つまり神の決め事には従わない小悪魔である人間は、それでも必死に論理的に(多くの男性がそうだろう)行動しようとする、その姿を揶揄し、からかい、話の筋をてんやわんやにしてしまうのがトリックスター。

ピーター・パンの妖精ティンカーベルやシェイクスピア『真夏の夜の夢』の妖精バック、ギリシャ神話や北欧神話のロキなどがそれにあたる。

そうしたかき回し屋を神話が挿入するのは、実は話の矛盾を一瞬でないまぜにして、一気に話を展開してゆくために作り出された。強引な展開が矛盾を解消し、聞き手がついて来れなくし、煙に巻き、結果、彼らもトリップするしかないことに気づくのである。

そして少々の矛盾に目をつぶり「さっきのあれはどうなった?」などと言えない状況に追いやるためには、神話はより理論的ではない、異常な、霊的な、憑依につきあうしかない状況を創作してゆく。それがシャーマニズムや語り部の重要な役目でもあった。

理論的な人間はその矛盾に悩まされ、そうではない人々はそれを許容し、中には許容するばかりか心底感心し、霊的な神や精霊や心霊に埋没する場合すらある。そしてそれ自体が人間の矛盾する行いとなっていく。それで何度だまされても、まただまされる悪徳商売のカモや、心霊現象信奉者や、カルト宗教にころりとやられる人間はあとを絶たないわけである。

そういう人々は詩を読めば落涙し、小説世界に陶酔し、講演を聴けばすぐに感化されやすい実にすばらしき感性の持ち主なのであるが、すべてが理論でまかなわれている現実世界の中にあっては、やや困る存在でもあるだろう。神話が語られ始めた時代には、無知蒙昧な人民があふれていたのだから、非常にやりやすかったことと思う。ところが現代のように、いくらかの知識や科学を教え込まれた場合、なかなか人は神話やカルト、サンタクロース、妖精などの存在は信じなくなっている。それでもまだだまされる、信じ込む人々は耐えない。それは彼らが弱いからだろう。心にいつも隙間を持ち、なにがしかに頼ろうというする弱い心に支配されているからだ。あるいは子供や少女のままに純真で、人を信じてしまう老人・・・この場合「寂しさ」は大きく影響する。ひとりでも生きていける人とそうでない人には、精神性で天と地ほどの違いがある。

日本神話ではアメノウズメというトリックスターにうまうまとだまされたのがサルタヒコであり、アマテラスなのであろう。

日本人の多くは、特に江戸時代から、お伊勢参りを頻繁にしてきた。伊勢へ参ることを口実にして休暇をとったのである。そこには伊勢神宮祭神であるアマテラスへの信仰のかけらなどはほとんどない。覚めた行動なのである。なにかが霊験として現れた特殊な場合をのぞけば、一般の江戸時代の日本人は神も仏もまったく信じてこなかったと言えるだろう。ただ平民のほとんどは祖先の霊魂と大自然の驚異だけは信仰してきた。つまり祖霊と崇り神だけは信仰対象になりえたのである。

祖霊とは自分を背後から見守り、災厄から守護してくれる。崇り神はその反対である。要するに吉凶でしか人は信仰心を持たないものなのだ。ところがそうではない人がいる。天皇が祀る国家神であるアマテラスをこよなく信じ、埋没する。そういう人々は神話をまずは疑うことがない。ということは矛盾からの一気の大転換にも無頓着となる。古代にはそういうものがほとんどであった。

父性とは今日でも科学、理論的な存在である。
男は狩猟という現実世界に生き、そのために自然を分析する生き物となった。そうしなければ獣に命をうばわれかねないからである。しかし女性・子供は家にいて、死の恐怖という現実からは隔離された。その代わり、霊的な異常性を好むようになった。非日常を空想の世界に求めて、つまらない家事や子育てのうさをはらそうとしたのであろう。男はその間、身勝手に気ままに狩というスリル=非日常的な現実世界を同時に持つことができる。

この狩猟行為はそのまま戦争にも適用できる。戦争は人が人を殺す狩猟である。非日常であり、異常な現実であり、そして名誉ある死も迎えられる。現実でありながら夢世界である、こうした馬鹿げたゲームに埋没するのはオスである。そこには別の憑依がある。憑依しなければ、トリップしなければ、とてもではないがこんな馬鹿げた殺し合いなどできるはずがない。

スポーツで見るなら、試合前の屈強なラグビー選手が、控え室で輪になって泣いているのを目にすることがある。相手も恐ろしいほどの大男であるラグビーというスポーツは、仮想戦争だと言える。そこで「あしはらのしこお」である選手たちは自分自身を鼓舞し、いくさに赴く武士のような精神状態になるという。それが大泣きという憑依行為で表現されるのである。怖い、しかしいかねばならぬ、おれがやらねば誰がやるか・・・そういう状況に追いやる。ところがチームの中で唯一、涙していない者がある。それは試合の流れを構築する役目の選手である。彼は常に冷静さと沈着な判断を必要とされる。トリップしない。つまり彼は科学である。

世の中が憑依する者ばかりではその世界はすぐに瓦解してしまうだろう。常にリーダーは沈着であらねば、年がら年中理不尽な戦い、争いを強いられてしまいかねない。科学と憑依が常にいい間柄であるときだけが平和は訪れる。もし男性の多くが迷信やシャーマニズムに埋没するようになったら、その世界は終末だといいうことになるだろう。

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