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旧紀伊国は名草・那賀(なが)・伊都(伊都国とは無関係)・海部(あま)・在田・日高・牟婁(むろ)の七郡からできていた。

名草の古墳群と言えばまず岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群である。
しかしながら100mを超えるほどの大前方後円墳はない。
下図はその中で60メートル超のものだけを表示してある。

■竈山墓(かまやまぼ)
神武東征のさいに死んだという兄・五瀬命の陵墓に指定されている。
神武という天皇は創作であるから、実際には応神の時代あたりに作られたものかと思うが、ここが『延喜式』によって「彦五瀬命 在紀伊国名草郡・・・」とわざわざ記載されたということは、当時それなりに伝承されてきたモデルがいたということになるだろう。それが果たして五瀬のモデルになった誰なのかは不明である。ただし、ここが紀氏、倭五王になにがしかのえにしのある人物の墓であったことは間違いあるまい。するといったい五瀬のモデルとは誰のことなのだろう?
もっとも竈山墓のサイズは『延喜式』のサイズには合わず、ここよりも井辺八幡山古墳(前方後円墳)の方がふさわしいだろう。どちらにせよ神武が実在したとしても、その当時に古墳時代の墓が作られるはずもない。するとやはり神武東征は河内王朝の事跡と思う方がよいように思う。

名草郡そばに海部郡があることを思うと、ここの海人族から紀氏や倭王のある系譜が出てくるのだろうと思われる。するとそれが讃・珍・済・興・武の最初のころの誰かのものではないかとなるのだが?

いずれにせよ河内王朝がここを何らかのえにしある土地としたからこそ、五瀬命陵墓の話はできあがっただろう。

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