■藤ノ木古墳の紅花
「藤ノ木古墳の石棺から出土した大量の紅花花粉の研究で、この古墳の石棺に納められた2体の被葬者が、穴穂部皇子と宅部皇子の可能性が高いことが分かった、と報じられている(産経新聞081101)。
藤ノ木古墳は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺字藤ノ木にある古墳で、古墳時代後期にあたる6世紀後半の円墳である。
昭和63(1988)年の発掘調査で、金銅製の靴やガラス玉で装飾された太刀、2人の人骨などが、埋葬当時の状態でみつかった。
法隆寺西院伽藍の西方約350mのところに位置し、直径約50m、高さ約9mである。
藤ノ木古墳の石棺内から検出された大量の紅花の花粉については、当初、被葬者を覆う布などの染料に使われた痕跡とみられていた。
それが、金原正明・奈良教育大学准教授(環境考古学)の研究で、染料にした花粉はほとんど残らないことが判明し、紅花の生花が供花として納められた可能性が高いことが分かったということである。」
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-ee44.html
「藤ノ木古墳の石棺から出土した大量の紅花花粉の研究で、この古墳の石棺に納められた2体の被葬者が、穴穂部皇子と宅部皇子の可能性が高いことが分かった、と報じられている(産経新聞081101)。
藤ノ木古墳は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺字藤ノ木にある古墳で、古墳時代後期にあたる6世紀後半の円墳である。
昭和63(1988)年の発掘調査で、金銅製の靴やガラス玉で装飾された太刀、2人の人骨などが、埋葬当時の状態でみつかった。
法隆寺西院伽藍の西方約350mのところに位置し、直径約50m、高さ約9mである。
藤ノ木古墳の石棺内から検出された大量の紅花の花粉については、当初、被葬者を覆う布などの染料に使われた痕跡とみられていた。
それが、金原正明・奈良教育大学准教授(環境考古学)の研究で、染料にした花粉はほとんど残らないことが判明し、紅花の生花が供花として納められた可能性が高いことが分かったということである。」
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-ee44.html
■纒向遺跡から大量のベニバナ花粉、卑弥呼の織物と関係?
「邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、弥生時代後期~古墳時代初め(3世紀中ごろ)の溝跡から採取した土に、ベニバナの花粉が大量に含まれているのが分かったと、市教委が2日、発表した。 これまで最古だった藤ノ木古墳(同県斑鳩町、6世紀後半)の例を300年以上さかのぼる発見。
ベニバナはシルクロードを通じ、中国から伝わったとされる。このため、市教委は「当時、加工技術を携えて来た渡来人が、この地域で染め物や化粧品などの生産をしていた」とみている。
中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」には、倭国の女王・卑弥呼が魏に赤と青の織物を献上したとの記述があり、邪馬台国との関係性をうかがわせる貴重な資料として注目される。
分析された土は、東西2キロ、南北1・5キロの同遺跡の中心部にある溝から1991年に採取したもの。金原正明・奈良教育大准教授(環境考古学)が分析したところ、1立方センチ・メートル当たり270~560個の花粉が確認された。通常では考えられないほどの量で、遺跡の周辺にあったベニバナ染織の工房から流された廃液が溝に残っていたと判断された。」(2007年10月3日3時16分 読売新聞)
「邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、弥生時代後期~古墳時代初め(3世紀中ごろ)の溝跡から採取した土に、ベニバナの花粉が大量に含まれているのが分かったと、市教委が2日、発表した。 これまで最古だった藤ノ木古墳(同県斑鳩町、6世紀後半)の例を300年以上さかのぼる発見。
ベニバナはシルクロードを通じ、中国から伝わったとされる。このため、市教委は「当時、加工技術を携えて来た渡来人が、この地域で染め物や化粧品などの生産をしていた」とみている。
中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」には、倭国の女王・卑弥呼が魏に赤と青の織物を献上したとの記述があり、邪馬台国との関係性をうかがわせる貴重な資料として注目される。
分析された土は、東西2キロ、南北1・5キロの同遺跡の中心部にある溝から1991年に採取したもの。金原正明・奈良教育大准教授(環境考古学)が分析したところ、1立方センチ・メートル当たり270~560個の花粉が確認された。通常では考えられないほどの量で、遺跡の周辺にあったベニバナ染織の工房から流された廃液が溝に残っていたと判断された。」(2007年10月3日3時16分 読売新聞)
「⑥以前の調査出土物に加えて「増補新版纏向遺跡」では、2005年以降の出土物が加筆されており、その中にNHK教育で放送された大量のベニバナ花粉も記載されている。ベニバナは中国あるいは半島経由で輸入されたと思われる。ご存知のようにベニバナは山形県の特産物で、そのほとんどが口紅原料になる。つまり赤色顔料のひとつである。油分を多く含むため粘着性にすぐれる。おそsらく丹塗りのほかに、ベニバナの赤も、多くの木製品の朱塗りに使用されたのだろう。あまり注目されないようだが、中国のベニバナがすでに三世紀後半までに日本に来ているということ、さらにそれが纏向のような王城?宮殿?祭祀遺構に用いられていたということは、最古の朱塗り建築が纏向に建てられていたことになり、神社の赤の先駆とも考えられる。纏向に集まったどこかの誰かがベニバナを知っていたことにもなるので、大陸との航路をすでに開発していた地域の人がいることになる。つまり「魏志倭人伝」の「朝貢」はこれで証明される可能性もある。もちろん、近畿よりももっと早くから交流のあった北部九州、あるいは吉備、出雲などの勢力からの情報だった可能性も高い。紅は建造物に限らず、巫女の唇や頬も彩った可能性も捨てがたい。赤は再生の色であり、活力、呪の色でもある。なかなかロマンティックな出土物であるし、なおかつこれの栽培が広く行われていたという農耕文化も纏向にはあったことになるだろう。ただし稲作や他の畑作に関しては今のところ不明である。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/49472711.html
纏向遺跡出土ベニバナ花粉
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/49472711.html
纏向遺跡出土ベニバナ花粉
藤ノ木古墳から検出されたベニバナの花粉は、引用記事が書くように供花だったという結論が出されている。
藤ノ木から約300年前の纏向遺跡で出た大量のベニバナ花粉はまだ結論は出されていないようだが、ベニバナ花粉は染料に加工されるとほとんど残存しないという環境考古学からの提言を尊重するならば、同様の結果となるわけであるが、纒向の場合、その量が非常に多いこと、出た場所が「大溝」遺構のように特殊な場所であることから考えると、大溝の沿線のどこかにベニバナ加工場があって、染料を精製するときに花粉を洗い流した可能性はあると思っている。さらに憶測するならばベニバナは口紅に使用されなかったか?果たして女性はなぜ唇を赤く染めてきたのか?そして男性はその赤い唇に何を感じていたのか?その根源の理由は必ずあるはずだ。
藤ノ木から約300年前の纏向遺跡で出た大量のベニバナ花粉はまだ結論は出されていないようだが、ベニバナ花粉は染料に加工されるとほとんど残存しないという環境考古学からの提言を尊重するならば、同様の結果となるわけであるが、纒向の場合、その量が非常に多いこと、出た場所が「大溝」遺構のように特殊な場所であることから考えると、大溝の沿線のどこかにベニバナ加工場があって、染料を精製するときに花粉を洗い流した可能性はあると思っている。さらに憶測するならばベニバナは口紅に使用されなかったか?果たして女性はなぜ唇を赤く染めてきたのか?そして男性はその赤い唇に何を感じていたのか?その根源の理由は必ずあるはずだ。
何に使った以上に、日本の古代人の色彩に対する意識を知ろうとするのが今回のシリーズ。
日本列島にはなかったベニバナをわざわざ中国あるいは朝鮮から取り寄せてまで、3世紀の大和の古代人がその赤に何を感じていたかにいずれ迫りたい。
日本列島にはなかったベニバナをわざわざ中国あるいは朝鮮から取り寄せてまで、3世紀の大和の古代人がその赤に何を感じていたかにいずれ迫りたい。
そして藤ノ木までの300年間に果たしてベニバナの加工遺物が出てこない理由は?300年も先行した纒向の人々がもしそれを加工して染料としたのなら、なぜそのあとの藤ノ木ではたんなる供養の献花にしか使われなかったのだろう?
また水銀、ベンガラの赤が持つ死者への「再生」の願いを現実化させるはずの色彩である朱・紅・赤にはいったい人類はいつから、なにゆえに呪を感じ取ってきたのかに迫る。


コメント
コメント一覧 (2)
新緑の神社に映える朱は、一番好きな景色。
遺跡から蓮の種が出て、古代ハスってあちこちで見るけれど、
紅花は知らなかった。
彼らが個人的に愛した花だったのかしら?
kawakatu
が
しました
一説では魏志倭人伝にある中国に卑弥呼が持って行かせた倭絹の染めに使ったかとも。江戸時代には口紅、今も口紅・頬紅に。
ヘモグロビンの色。
床屋のくるくるまわる奴。
共産党の色。
母親の胎内の色(人間が最初に感じる色)
kawakatu
が
しました