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森浩一『倭人伝を読みなおす』から諸情報を加味して新規Kawakatu製作

■魏志倭人伝にある東夷伝・倭人条が「倭国」と記載しなかった理由
そこが倭と狗邪韓国双方の海人族の共栄圏だったから。
「倭の北岸」とは共栄圏の北限の海岸部という意味である。
狗邪韓国と北部九州倭は同族であり、そこには国境などなかったのだ。

双方に共通する支石墓、甕棺、出土遺物などがそれを如実に物語っている。
当時双方の海人は寛容で、李氏朝鮮時代でさえ、対馬当主の宗貞盛と李氏朝鮮王朝の間には、それまでの慣習を重視して、対馬の海人たちが海岸部の島々を漁業基地とすることを許可し、巨文島周辺での漁をすることを認めていた。この釣魚禁約はかつての「とくろ国=巨済島」の範囲であった欲知島で締結され、対馬の漁民たちはまずここに立ち寄ったのちに巨文島まで漁に出て、帰りも必ず欲知に帰還し、ここで漁獲量に見合った税金を支払った。李氏朝鮮と対馬、日本との海上領有関係は非常に良好であった。

七世紀の『隋書』にも、当時南下してここを領土とした百済には「雑えて新羅・高麗・倭などあり。また中華の人もあり」と書き、その頃まで半島南部がコスモポリス、共栄圏だったと匂わせている。

おしなべて海人族だった倭人たちは融通無碍である。
また江戸時代の記録でも海人は船の上を家とし、陸地に住まないとかかれており、その主たる国邑は海上だったと考えてよい。陸地は単なる中継基地であり、そこに婦女子を置くが、男たちは家族のいるその海岸や島々を定住地とは捉えていなかった。定住するようになったのは奈良から江戸時代の税調徴収の便宜上の指示である。

従って対馬海峡には国境などそもそもなかったのだ。

この海人族のあいまいさは、むしろ今となっては理想的居住の仕方で、画期的とさえ言える。

これに対し今の韓国では、元凶である中国の南下「侵略」政策のあったことを無視し、一方的に日本の島々を自分たちのものだったと言いたがり、心根が狭くなってしまった。勘違いもはなはだしい。そもそも日本と半島は共栄をめざしてきた。韓国考古学ではすでに多くの日本人の古墳群を発掘後、完全に埋め戻してしまうという事実がある。発掘し、倭人の遺物が出ると、「日本人学者を喜ばせるから」という理由で埋没させ、なかったことにしているのである。古代人の寛容さを忘却した憐憫すべき狭量さと言わずばなるまい。


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