■追儺の本義
「追儺(ついな)とは、大晦日(12月30日 (旧暦))の宮中の年中行事であり、平安時代の初期頃から行われている鬼払いの儀式。「鬼やらい」(鬼遣らい、鬼儺などとも表記)、「儺(な)やらい」とも呼ばれる。追儺はもとは中国の行事であり、宮廷の年中行事となり、現在の節分の元となった行事である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%84%BA
「追儺(ついな)とは、大晦日(12月30日 (旧暦))の宮中の年中行事であり、平安時代の初期頃から行われている鬼払いの儀式。「鬼やらい」(鬼遣らい、鬼儺などとも表記)、「儺(な)やらい」とも呼ばれる。追儺はもとは中国の行事であり、宮廷の年中行事となり、現在の節分の元となった行事である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%84%BA
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往古の節分が旧暦12月の大晦日であったことはよく知られるところであろう。
「追儺」とは一年の最終日にあらたかな新年を迎えるために、この一年間に自分たちの周辺にまとわりついてきた鬼=悪霊をまとめて追い払うことによって福を招き入れるスペースを作ろうという「おこない」である。
簡単に今風に言えばパソコンのマイドキュメントに忍び込んだ不要なレジストリをクリーンアップするような作業で、このレジストリークリーナーとかディスククリーンアップをしてくれるソフトとして「籠もり」「鬼やらい」「修二会」「お水とり」「厄払い」「坊主の念仏」「花祭り」「霜月供養」「はらい」「おこない」「なおい」「白山」などの各種有名ソフトが存在するわけである。
神社仏閣というものが常にそこにあって氏子や檀家の災いを守っているウイルス対策ソフトであるのに較べて、追儺行事は氏子・檀家が積極的に大晦日を大掃除の日と定め、「師」・・・いわゆる坊主や法呪師(ほずし)を呼んでお払いをしてもらうわけである。ゆえに「師走」を「しはす」と読んで、師がしはつ(四極・四至。つまり四方八方)に走り回るから12月を師走と呼ぶのであろう。
この時に坊主は念誦念仏、加持祈祷をするが、陰陽師・法呪師たちは反閇・旋回を基本所作とする禹歩を基盤にした舞いや神楽を踊ったり、祈祷したり、祭文を読み上げたり、飛びはね、走り回った。
「追儺」とは一年の最終日にあらたかな新年を迎えるために、この一年間に自分たちの周辺にまとわりついてきた鬼=悪霊をまとめて追い払うことによって福を招き入れるスペースを作ろうという「おこない」である。
簡単に今風に言えばパソコンのマイドキュメントに忍び込んだ不要なレジストリをクリーンアップするような作業で、このレジストリークリーナーとかディスククリーンアップをしてくれるソフトとして「籠もり」「鬼やらい」「修二会」「お水とり」「厄払い」「坊主の念仏」「花祭り」「霜月供養」「はらい」「おこない」「なおい」「白山」などの各種有名ソフトが存在するわけである。
神社仏閣というものが常にそこにあって氏子や檀家の災いを守っているウイルス対策ソフトであるのに較べて、追儺行事は氏子・檀家が積極的に大晦日を大掃除の日と定め、「師」・・・いわゆる坊主や法呪師(ほずし)を呼んでお払いをしてもらうわけである。ゆえに「師走」を「しはす」と読んで、師がしはつ(四極・四至。つまり四方八方)に走り回るから12月を師走と呼ぶのであろう。
この時に坊主は念誦念仏、加持祈祷をするが、陰陽師・法呪師たちは反閇・旋回を基本所作とする禹歩を基盤にした舞いや神楽を踊ったり、祈祷したり、祭文を読み上げたり、飛びはね、走り回った。
「師走と書いて「しわす」
一般に先生が走る月などと言われてきたが、筆者の説は違う。
12月に多い追儺行事では、師が走り回るからである。
この師とは「法呪師」(ほずし)である。
薬師寺では追儺のために法呪師が走り回る。
一般に先生が走る月などと言われてきたが、筆者の説は違う。
12月に多い追儺行事では、師が走り回るからである。
この師とは「法呪師」(ほずし)である。
薬師寺では追儺のために法呪師が走り回る。
これは古代の巫女舞いに始まる「神懸り」所作で、そこから神楽、田楽、猿楽、御田植え祭り、などの芸能が生まれ、さらに能狂言、歌舞伎。落語、文楽、謡、舞楽、謡曲、浪花節、盆踊りなどなどのいわゆる大衆芸能のすべてが派生して行った。
そのすべてはいわば言霊と所作による鬼の鎮魂を旨とする追儺に他ならない。
そのすべてが去ってゆくモノ・トシ神への呪であり、鎮魂であり、同時に福と笑いを迎え入れるための笑門招福の意味がある。
では鬼とはなにか?
それは一般的には厄であり、災厄、自然の猛威、病疫、衰退、死、火事水害台風地震、病害虫などなどの実際に人を弱めたり、死に至らしめるすべての災厄、家や国家を衰亡させるありとあらゆる弊害、外敵を言うことになるだろう。これを言う言葉に関西弁の「ほかす」がある。
では鬼とはなにか?
それは一般的には厄であり、災厄、自然の猛威、病疫、衰退、死、火事水害台風地震、病害虫などなどの実際に人を弱めたり、死に至らしめるすべての災厄、家や国家を衰亡させるありとあらゆる弊害、外敵を言うことになるだろう。これを言う言葉に関西弁の「ほかす」がある。
■ほかす
「ほか・す」とは「ほかいびと(乞食人)」の「ほか」である。
すなわち漂泊の職能民や芸能民、もっと古くは語り部集団などを指す。それを追いやる行為から「ほかす」は「捨てる」の意味に転用されたわけであろう。つまり彼等も鬼であった。その構成は渡来系技術者、蝦夷系技術者、政治犯、敗北者、熊襲系隼人・球磨人、毛人、間人、犯罪者、脱落者、そして儒教が入ってからだがつかまえて鬼=生贄とされた旅人、また神に捧げられたゆえなき生贄の霊魂、同じく自然災害に飲み込まれた事故死者、水子の霊、生霊、死霊などなどのすべてが鬼である。
「ほか・す」とは「ほかいびと(乞食人)」の「ほか」である。
すなわち漂泊の職能民や芸能民、もっと古くは語り部集団などを指す。それを追いやる行為から「ほかす」は「捨てる」の意味に転用されたわけであろう。つまり彼等も鬼であった。その構成は渡来系技術者、蝦夷系技術者、政治犯、敗北者、熊襲系隼人・球磨人、毛人、間人、犯罪者、脱落者、そして儒教が入ってからだがつかまえて鬼=生贄とされた旅人、また神に捧げられたゆえなき生贄の霊魂、同じく自然災害に飲み込まれた事故死者、水子の霊、生霊、死霊などなどのすべてが鬼である。
■つごもり
大晦日を「みそか」と呼ぶ理由は「三十日」の大和言葉からであり、「みそひと」は三十一で短歌の言葉数になる。「みそひと」とは「おおみそか」なのであって、ゆえに和歌もやはり追儺なのである。これを「つごもり」とも言い、十二月三十一日という一年の千秋楽の日を特別に「おおつごもり」と呼ぶ。「つごもり」とは精進潔斎して家内に「籠もる」ことである。辟邪観念であるから追儺と同根であるが積極的な追儺に較べて消極的。これは往古、古墳の被葬者などが重い石棺に入れられ、密封の朱を塗られたことに相通ずる。死体が腐ってゆくのは悪霊が遺骸を食べてしまうからだと考えられていた時代から、悪霊は退散させねばならぬ存在でっあった。
大晦日を「みそか」と呼ぶ理由は「三十日」の大和言葉からであり、「みそひと」は三十一で短歌の言葉数になる。「みそひと」とは「おおみそか」なのであって、ゆえに和歌もやはり追儺なのである。これを「つごもり」とも言い、十二月三十一日という一年の千秋楽の日を特別に「おおつごもり」と呼ぶ。「つごもり」とは精進潔斎して家内に「籠もる」ことである。辟邪観念であるから追儺と同根であるが積極的な追儺に較べて消極的。これは往古、古墳の被葬者などが重い石棺に入れられ、密封の朱を塗られたことに相通ずる。死体が腐ってゆくのは悪霊が遺骸を食べてしまうからだと考えられていた時代から、悪霊は退散させねばならぬ存在でっあった。
■籠もる
籠に入ることである。
籠とはカゴメ(笊や籠が形成する六角形と五角形の目)を百目と言い、この目が悪霊を退散させるという信仰観念からこの言葉は生まれている。つまり籠とは魔よけのことになる。陰陽道の「九字」もこの目を作り出す所作である。目とはその後「的」や「水面に起きる渦巻」もそういう意味が当てられてゆく。すなわち同心円=渦巻=目である。渦巻は世界的な魔よけ模様となる。そして古代人はみな、これと同じ形象物を自然界に求めた。すべてが辟邪、再生観念であるが、その原始の派生は人類が「永遠」観念と「ゼロ」観念を発見したときすでに始まっている。
籠に入ることである。
籠とはカゴメ(笊や籠が形成する六角形と五角形の目)を百目と言い、この目が悪霊を退散させるという信仰観念からこの言葉は生まれている。つまり籠とは魔よけのことになる。陰陽道の「九字」もこの目を作り出す所作である。目とはその後「的」や「水面に起きる渦巻」もそういう意味が当てられてゆく。すなわち同心円=渦巻=目である。渦巻は世界的な魔よけ模様となる。そして古代人はみな、これと同じ形象物を自然界に求めた。すべてが辟邪、再生観念であるが、その原始の派生は人類が「永遠」観念と「ゼロ」観念を発見したときすでに始まっている。
以上Kawakatu そうだじゅん




コメント
コメント一覧 (12)
また一つおりこうさんになりました。
ありがとう
kawakatu
が
しました
でっせ。Kawakatu説。しかし、まあ間違いなく「他す」「外す」と「ほかい」は同根から生まれたことでしょう。
するとおかしなことに気がつきまっせ。ホルモンの意味が「放るもの」からだという関西でいわれている説では「捨てる」は関西では「ほる」であることになる。それだけで十分なのになぜ「ほかす」があるのか?同じ意味ですよね?
つまり両者には微妙に意味の違いがあったことになりませんか?
人は「ほかされた」がものは「ほられた」わけですかねえ^^;
いやあ、歴史って本当に面白いですねえ!!
kawakatu
が
しました
kawakatu
が
しました
kawakatu
が
しました
リンクとTBさせていただきました。
kawakatu
が
しました
kawakatu
が
しました
kawakatu
が
しました
ここにやはり「ほうか」「ほうげ」の二通りの読み方あり
投げ捨てること
ですから貴方の予想通りだと言っていいのでは?
kawakatu
が
しました
kawakatu
が
しました
kawakatu
が
しました
インデアンの行事を思い出しました。渦巻き模様はアメリカのペトログリフにもインドの細密画でも見られます。本には物が産まれて外とつながる子宮の意味だと書いてありました。
私は関西出身なので普通に『ほかす』と言ってましたが、深い意味があったんですね。『ほる』は投げる意味で使っていました。
kawakatu
が
しました
あ、関西でしたね。たしかにボールをほるといいますよね。放るの「う」が省略される。のばすのが苦手なのかなあ?そのかわり伸ばさなくていいところが伸びて「気ィつけてやあ」となる。その接尾の伸ばし方が上海アクセントにそっくりなのですよ。
kawakatu
が
しました