方天地初發之時,於高天原成一神,其名「天之御中主神」;次現神,名呼「高御產巢日神」;又現神,名曰「神產巢日神」。此上三柱神者,皆獨神成坐而隱其身也。時國稚如浮脂而若水母漂於水中之狀。方時,若葦牙因萌騰之物而成神,名為「宇摩志訶備比古遲神」也。其後,有表天界之永存而成之神,曰「天之常立神」。(『古事記』上巻神代冒頭)
http://zh.wikisource.org/zh/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
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筆者意訳
何もなかったんよ。
言葉で表せるものはな~~にもなあ。
あったと言えば、渦・・・?
(阿礼がじいさまやばあさまにに憑依してしゃべったことと思いなされ。今書き写しとられるのはどなたじゃったかのう?あ、親王さまかのう。失礼をば。言葉が悪いのは憑依のせいじゃから、おゆるしを)
わしゃあなにも聞かされとらんのじゃ。
見てきたわけもない。
天地がこの世にできてからのことしか知らんのじゃよ。
天と地がはじめてあらわれたときじゃ。
その時タカマノハラに生成された神のお名前はアメノミナカヌシの神じゃ。次にタカミムスビ、次がカムムスビじゃった。
全部独身じゃ。いつのまにやら身をお隠しになられたんじゃ。
全訳古事記http://orange.ap.teacup.com/tasogaresakaba/54.html
何もなかったんよ。
言葉で表せるものはな~~にもなあ。
あったと言えば、渦・・・?
(阿礼がじいさまやばあさまにに憑依してしゃべったことと思いなされ。今書き写しとられるのはどなたじゃったかのう?あ、親王さまかのう。失礼をば。言葉が悪いのは憑依のせいじゃから、おゆるしを)
わしゃあなにも聞かされとらんのじゃ。
見てきたわけもない。
天地がこの世にできてからのことしか知らんのじゃよ。
天と地がはじめてあらわれたときじゃ。
その時タカマノハラに生成された神のお名前はアメノミナカヌシの神じゃ。次にタカミムスビ、次がカムムスビじゃった。
全部独身じゃ。いつのまにやら身をお隠しになられたんじゃ。
全訳古事記http://orange.ap.teacup.com/tasogaresakaba/54.html
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いわゆる「祭文(さいもん)」の代表選手である『古事記』冒頭の「神語(かむかたり)」である。
数ある祭文の中でも神語は定型祭文と言われている。
すなわち古今伝授する際に決して詠唱者が編集・改編してはならない言辞を「神語」と言う。
このことは『古事記』上巻神代編の中で、出雲のオホナムチが倭国へ旅立とうとするときに妻・スセリビメと交し合った歌垣の説明として三浦佑之が解説してある。
すなわち古今伝授する際に決して詠唱者が編集・改編してはならない言辞を「神語」と言う。
このことは『古事記』上巻神代編の中で、出雲のオホナムチが倭国へ旅立とうとするときに妻・スセリビメと交し合った歌垣の説明として三浦佑之が解説してある。
全訳古事記23 オオクニヌシとスセリビメの歌垣
「このとき歌い交わした五つの歌を「神語(かむがたり)」という。
万葉集には「乞食者歌ほがいびとのうた」とされておる。要するに「歌垣」じゃな。そもそも歌とはそうしたものじゃ。男と女子のやったとったのできちゃうまでの交歓儀式が歌謡の始まりじゃ。ただわしが聞いたのはここだけじゃ、あとはいつもの語り口。とは言いながら、その語り口は語り手によっていちいち違うんじゃ。わしゃあ、いつも聞かせてくれた祖父のまねをしておるだけじゃ。これを古今伝授と言うのう・・・。口調も自分ながらに変えるし、言葉も加減するのじゃ。語り伝えとはそういうもんじゃ。落語と同じじゃ。その中でこの「神語り」だけはの、絶対変えちゃいかんぜよ。そっくりそのまま伝えよと厳しくきめられちょる。そういうもんじゃよ。」
http://orange.ap.teacup.com/tasogaresakaba/
「このとき歌い交わした五つの歌を「神語(かむがたり)」という。
万葉集には「乞食者歌ほがいびとのうた」とされておる。要するに「歌垣」じゃな。そもそも歌とはそうしたものじゃ。男と女子のやったとったのできちゃうまでの交歓儀式が歌謡の始まりじゃ。ただわしが聞いたのはここだけじゃ、あとはいつもの語り口。とは言いながら、その語り口は語り手によっていちいち違うんじゃ。わしゃあ、いつも聞かせてくれた祖父のまねをしておるだけじゃ。これを古今伝授と言うのう・・・。口調も自分ながらに変えるし、言葉も加減するのじゃ。語り伝えとはそういうもんじゃ。落語と同じじゃ。その中でこの「神語り」だけはの、絶対変えちゃいかんぜよ。そっくりそのまま伝えよと厳しくきめられちょる。そういうもんじゃよ。」
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=== ここでわかることは二人の神が交し合う「歌」こそが祭文なのであり、かつまたその歌こそは「神語」であり、そこだけは絶対に言い換え、書き換えてはいけなかった、ということだろう。
つまり歌謡、和歌、長歌などなどに関わらず呪文は決して間違えて覚えてはならぬ、意味が無い、呪がなくなる、という意味であろう。
神話は韻文・・・伝授されてゆく抒情詩の数々を散文・・・叙事詩でつないでゆくものであり、叙事詩はいかほどに編集されても、抒情詩だけは原初のままに言い伝えられてきた。
ということは韻文・和歌・長歌・抒情詩とはすなわち祭祀者が神に捧げる祭文・呪文・祝詞と同根なのである。
ということは韻文・和歌・長歌・抒情詩とはすなわち祭祀者が神に捧げる祭文・呪文・祝詞と同根なのである。
もっと言ってしまえば、「神語さえ改変されていなければ、叙事部分はいくらでも改編してもよく、それはいわゆる各地に残っている「偽書」でさえも、そのルールに見合っていさえすれば立派な祭文である」ことになってしまうわけである。===
■祭文 さいもん・さいぶん
「宗教的な儀式において,神仏に向かって読み上げる言葉。歌謡の一種。音楽的に作曲されていることもある。後には世俗的・娯楽的な内容の祭文が作られ,修験(しゅげん)僧,あるいは下層芸能民の中にこれを職とする者が出るようになった。 」http://kotobank.jp/word/%E7%A5%AD%E6%96%87
「宗教的な儀式において,神仏に向かって読み上げる言葉。歌謡の一種。音楽的に作曲されていることもある。後には世俗的・娯楽的な内容の祭文が作られ,修験(しゅげん)僧,あるいは下層芸能民の中にこれを職とする者が出るようになった。 」http://kotobank.jp/word/%E7%A5%AD%E6%96%87
■神話
1「神話とは、報告し、名付け、起源を言おうとするものであった。」
2「しかしそれとともに神話は、叙述し、確認し、説明を加えようとした」
3「この傾向は、神話が文字によって記録され、文書として収集されることによって強化された」
(アドルノ&ホルクハイマー共著『啓蒙の弁証論』)
1「神話とは、報告し、名付け、起源を言おうとするものであった。」
2「しかしそれとともに神話は、叙述し、確認し、説明を加えようとした」
3「この傾向は、神話が文字によって記録され、文書として収集されることによって強化された」
(アドルノ&ホルクハイマー共著『啓蒙の弁証論』)
「一人称式に発想する叙事詩は、神の独り言である。神、人に懸(か)かって、自分の来歴を述べ、種族の歴史・土地の由緒などを陳(の)べる。・・・其等の「本縁」を語る文章は、勿論、巫覡(ふげき)の口を衝(つ)いて出る口語文である。さうして其口は十分な律文的要素が加わって居た。(折口信夫「国文学の発生」)
「われわれはMythusという洋語を、うっかり神話と訳してしまったが、あれは実際は後悔してもよい不出来であった。(「話す」とは日本の古語ではなく新しい造語であり、神話とはそもそも「話す」のではなく神に仕える者が管掌してきたのだ)」(柳田國男『口承文芸史考』)
神に仕える者とは預言者である。
それははじめに祭祀者・巫女・巫覡であった。
やがてそれが王になった。
つまり王とは最初預言者である。
ゆえに彼の語る言葉はすなわち神語なのだった。
だから「かむがたり」とは「会話」とはまったく次元の異なる「祭文」なのであり、神が語ったことを一字一句間違いなく託宣せねばならなかった。
それははじめに祭祀者・巫女・巫覡であった。
やがてそれが王になった。
つまり王とは最初預言者である。
ゆえに彼の語る言葉はすなわち神語なのだった。
だから「かむがたり」とは「会話」とはまったく次元の異なる「祭文」なのであり、神が語ったことを一字一句間違いなく託宣せねばならなかった。
折口はそこに「神懸り」という観念を書き加えた。トランス=憑依状態である。「生活の根本様式が急迫する」という異常な律動から律文が派生し、それが叙事詩・神語の原型となったと折口は考えた。
憑依しなければ神は懸からない。
そういう異常な状態とは例えば戦争などの命をかけたストレスなどでしか普通は起こり得ない。だから普段はあえてトリップせねばならない。そのためには擬似いくさ状態、狂乱的な乱舞、精神の集中、薬物などが必要となる。そういうトランス状態は実は恋愛による性衝動にそっくりなのである。リビドーによる高揚、恍惚とは元来憑依や麻薬による高揚感と同源である。少なくとも原始、人はそう考えた。そしてそれは空海の言葉にさえ記録されている。1万年、ほとんど変わりなくそうだった。だから漂泊者・夙・宿と祝の者=宗教者・修験たちとは同源である。訪れて契りを交わし、歌垣して相手を選びセックスすることはそのままイコール神語、祭文を実行する行為だった。ゆえに歌謡・祭文・託宣・修験・神楽・謡曲・芸能・歌舞音曲・祝辞・祝詞・念仏などなどはすべてイコールなのである。
そういう異常な状態とは例えば戦争などの命をかけたストレスなどでしか普通は起こり得ない。だから普段はあえてトリップせねばならない。そのためには擬似いくさ状態、狂乱的な乱舞、精神の集中、薬物などが必要となる。そういうトランス状態は実は恋愛による性衝動にそっくりなのである。リビドーによる高揚、恍惚とは元来憑依や麻薬による高揚感と同源である。少なくとも原始、人はそう考えた。そしてそれは空海の言葉にさえ記録されている。1万年、ほとんど変わりなくそうだった。だから漂泊者・夙・宿と祝の者=宗教者・修験たちとは同源である。訪れて契りを交わし、歌垣して相手を選びセックスすることはそのままイコール神語、祭文を実行する行為だった。ゆえに歌謡・祭文・託宣・修験・神楽・謡曲・芸能・歌舞音曲・祝辞・祝詞・念仏などなどはすべてイコールなのである。
そしてその中で神が語った言葉だけは絶対に、一字一句間違えずに伝えられてきた。ところがそれが記録されたとたんに神話=叙事へと変化し、そこには主観的な、政治的な手が加えられていく宿命に晒されるようになった。
中世になると、記録されてしまった神話の完成によって中央では無用になっていった語り部たちは各地へ流浪してゆく。吟遊詩人となることで各地に神話が広がってゆくのである。それは全国に新たな秩序と、新たな神の名、新たな祭りをひきおこしていく。つまり王族・貴種が作り上げた神話は、どんどん普遍的な芸能や伝承、神名を、中央から押し付けてゆく必要もなく、自然に滲みこませていったのである。言うならば漂泊者は貴種の代弁者となってしまった。望まずともそうなったのであり、地方の人々も面白おかしい語り部の話す抒情詩、叙事詩を楽しみにしていき、やがて踊りや祭りや神社祭神の神名が決っていったのだ。
するとそれを取り込んだ地元民や修験者やうばそく、山伏たちの中には、それらの祭文、神語にアレンジをくわえて独自の宗派、神派の祭文へと完成させてしまうものすら現れた。そしてその祭文には、同時に新たな自分たちの出自や、別の氏族の出自が加わって行き、結果としてさまざまの哲学や宗教、歴史書までが生まれるようになる。貴種流離譚、呉越子孫譚、犬祖伝説、海人説話、記紀神話登場の神の別伝などなど、ありとあらゆるまがいものの、しかし真意である神の預言という部分は変わらずに、多種多様な「やおろずの神」がそれこそ魑魅魍魎のごとく生まれだす。パンドラの箱は開け放たれたのである。
そしてそれらの精霊とも、神とも、悪霊ともつかぬモノたちは近世になると実体を与えられ、妖怪変化となって今に伝承されていった。これこそが秦河勝が最も恐れていた事態であった。神はひとつでなければならなかった。そしてそれを伝える託宣者は日本の王である天皇でなければならなかった。だから河勝はアゲハの幼虫を常世の神
とした大生部を懲らしめた。王、祭文、神、祭り、信仰は唯一絶対に天皇からあまねく全国民に伝えられてゆくべき法令であらねばならなかった。しかしそうはならなかった。日本人はみな自由でありつづけ、多神をばらばらに信じていった。天皇はそれらの総元締めであればよく、貴種は常民のウカラであった。こうして最高の地位にあるものと最低の地位に置かれたものどもは、相反するそんざいでありながら、それぞれがそれぞれの「王」を持つこととなったのである。
とした大生部を懲らしめた。王、祭文、神、祭り、信仰は唯一絶対に天皇からあまねく全国民に伝えられてゆくべき法令であらねばならなかった。しかしそうはならなかった。日本人はみな自由でありつづけ、多神をばらばらに信じていった。天皇はそれらの総元締めであればよく、貴種は常民のウカラであった。こうして最高の地位にあるものと最低の地位に置かれたものどもは、相反するそんざいでありながら、それぞれがそれぞれの「王」を持つこととなったのである。
しかし「神語」と「神歌」だけは絶対に一字一句違わず、たったそれだけによって日本人は同じ線上に立つ、いわば代弁者なき神の子となったのだった。
参考文献 神話と歴史の間で1『歴史を問う』「神話と歴史の間で」山本ひろ子 岩波書店 2001

コメント
コメント一覧 (17)
kawakatu
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中央の観念を知らせるための機能が格式ある神社にはあった。
勝手気ままな神話のアレンジとは筆者は何を言おうとしてりうのでしょうか?
kawakatu
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kawakatu
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kawakatu
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kawakatu
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kawakatu
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世界中、どの歴史を見ても、人間の歴史にはそれしかないということは、いつか理解できるときがくるでしょう。しばられるのではなく、そこから新しい生き方、進み方を学ぶのが歴史学じゃあないの?
kawakatu
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kawakatu
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確かに文献を重視し過ぎる人はいまだに多いですね。その「種族」^^は論理を積み重ねてゆくことには長けていますが、着想の大転換には非常に鈍いという特徴があるようです。しかし考古学その他の遺物分析は事実をわずかながら着々と割り出しますが、文献史学は文学の空想の与太話が多く、もうばらばらで、なんの決定力も無いのが実情ですから、気にしないほうがいいです。前世紀の遺物くらいに思っておればよい。歴女のほうが随分ラジカルであろうと・・・。
むしろ「書いてあること」などは幾らでも改編できる散文の部分であって、変わらなかった韻文のほうが重要な資料なんです。物語の骨子と韻文に記録されている歌というものが記紀研究には最重要な価値がる。ほかの地名や神の名なんかはなんぼでもあとから書き換えられます。『古事記』冒頭の祭文はしかし手が加えられないし、挿入された歌などは変わらなかった。変わらない部分だけが大事なのです。文献史学者には神の言葉が理解できないものが多いですな。
kawakatu
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その通りですね。。「行間を読む」という想像力や推理力が必要だなと思います。研究にはすべて付き物かもしれませんが。
kawakatu
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まさにその通り。
言外にある詩的乾坤とでもいいましょうか・・・
真実とは散文、解説ではなくて「うた」にこそある。
kawakatu
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音楽をやっている僕としてはうれしい言葉です。
kawakatu
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ぼくも音楽、演奏は好きです。パーツはギター、ジャンルはブルース・ラグタイム
へたくそですけど・・・
kawakatu
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kawakatu
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日本の楽曲に向かったその心こそが素晴らしい。
トロンボーン・・・谷啓さんの死はつくずく残念でした。
クラリネットもいいですよ。
登録に対応感謝。
kawakatu
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kawakatu
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kawakatu
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