以前書いた記事の中から、ちょっとズルするわけではないけれどいくつか再掲載。別のブログに書いたので未読の人がいるかも知れない。今、あまりにも難しい山本ひろ子女史の神話学の本を読んでいて、頭が混乱しているので、頭に窓を開け風を入れている。つまり気分転換と過去記事の虫干しである。
ヤフーブログの素晴らしいところは過去記事がすべて保管されていることである。ほかのブログでは無料でこんな大容量のブログはなく、ふつうの無料ブログでは過去記事はどんどん消えてなくなる。だからこういうリピーターの多くなりそうな辞書ブログにとってはヤフーさまさまである。
今回の虫干し記事はみなさん大好きな「金」ゴールドであります。昨年の記事から。

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「金の考古学1 百済王敬福と渡来技術者」  転載記事
かわかつワールド金の考古学→http://white.ap.teacup.com/kawakatublog/347.html

■金の発掘の歴史・古代史 

日本最初の国産金は東大寺廬遮那仏の金メッキのために、奥羽から発掘され、聖武天皇に献上された天平21年が最初の記録された発掘である。
それを成功させたのは渡来人・百済王氏の直系と言われている百済王敬福(くだらのこにきし・きょうふく)である。





百済王敬福の日記 天平神護2年(766)6月
「天平年中、仕至 従五位上 陸奥守(むつのかみ)、時聖武皇帝造廬遮那銅像冶鋳云畢、塗金不足、而陸奥国馳駅、貢小田郡所出黄金九百両、我国家黄金従此始出焉」

『続日本紀』
「聖武天皇、天平二十一年二月丁巳、陸奥始貢黄金金、於是奉幣以告畿内七道諸社」
「天平感宝元年四月二二日 陸奥守従三位百済王敬福金九百両貢金」

『続日本紀』の記述は交錯しており、年月日や敬福の階位もまちまちで正鵠を欠いており、信頼できるのは一番上の、敬福自身の記録であろうとされている。正史の記述にいい加減さがあるという例になる。

敬福が書き記した「小田郡」の発掘場所としては、宮城県北部から岩手県の、気仙、本吉、東磐井周辺。北上川流域である。黄金を貢金した場所とは現在の遠田郡黄金迫(おんだぐん・こがねはざま)というのが定説。

敬福はこの事業に関わってから常に造仏長官・国中連公麻呂(くんなかのむらじ・きみまろ)と緻密に連絡を取り合っている。そして大仏に鍍金が必要になることを早くから察知したか、このときすでに金を蓄財していたと考えられている。ところがそのころ、はるかに離れた九州豊前の宇佐神宮に入っていたのが東大寺初代別当となる良弁だった。そしてなぜか宇佐神宮神祇をつかさどる大神(おおが)杜女は、奥羽から金が出ることを神託していたことになっている。宇佐神宮と大神氏は、これをきっかけに東大寺へ神輿を担いで直参し、勢いを借りて東大寺境内に手向山八幡を勘定してしまうのである。大神氏一流の売り込みだった。

それはさておき、日本最初の黄金が渡来人の手によって発掘されたことは覚えておくほうがいいだろう。いわゆる鉱山技術者たちが陸奥守である敬福の元に馳せ参じたわけである。
その面子は図の通り。
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採掘者である余足人(あぐりの・なるひと)
鋳造者である戸浄山(への・じょうざん)
そして採掘し金を分離させる流し技術者である朱牟須売(しゅの・むすめ)の三人は百済帰化人である。

百済が唐と新羅の連合軍によって、天智の援軍むなしく滅亡したあと、百済の貴族たちはこぞって日本に逃げ込んでおり、その後、持統朝のときに「百済王」の氏族名をもらう。その中で百済王とともに亡命したのが国中連公麻呂である。

要するに、金の採掘とネコ流し、アマルガム鍍金技術、鋳造などの技術者が百済王のもとに集合しており、いわばひとつのグループを形成していたと考えられる。
百済において、彼等はすでに百済王のための金発掘に動いていたのであろうと思われる。武寧王や江田船山古墳被葬者の黄金の冠、履などは非常に有名である。
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それが大仏建立で動いたわけで、ということは彼等がすでにその前から金鉱脈探索を日本で行い、あらかじめめぼしはついていたと考えてもかまうまい。それがなぜ良弁の知るところとなったかと言えば、近江出身で親の故郷が若狭の水銀産地・遠敷であるところのこの修験的ううばそくが、元々、鉱山には詳しく、百済王と連絡網を持っていたからにほかなるまい。そして、その情報を、豊前の宇佐に入っていた大神氏にそれとなく伝えたということになろうか。ということは彼等には元々、そういうルートでの共存関係があることになるだろうか。

大神氏は出自を大和の大三輪氏と自称しているが、実際のところ何者なのかよくわかっていない。彼等が宇佐に入り、宇佐・辛島という先住祭祀者から実権を奪おうとしたことは明々白々の事実である。果たしてそこに百済系渡来の、宇佐八幡神=加耶系?応神天皇信仰簒奪、塗り替えという謀略が隠されていたのかどうかは定かでない。

当時まで、金はすべて中国からの輸入しかなかった。
それが百済王家のおかげで、初めて国産砂金が記録されたのである。

当時から江戸期まで、日本で金と言えば砂金である。
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水銀中に自然に含まれる金。すべての鉱物の中で金だけは水銀に溶解せず、粒上の結晶になって溶け込んでおり、それを水流で水銀だけを樋に流して、洗い流し、筵に金だけを絡みつかせる。それを集めて小粒の金塊にする。このサイズはさまざまで、技術者たちは「小豆」「粒」などと俗称した。砂金の場合、古代は竹の筒に入れる。近世には各藩が専用の引き出しつき砂金箱を作り、厳重に四箇所も錠前をつけて、これを二つ紐で結び、馬の背にかけて運んだと言われている。



馬がない場合は人力である。背中に籠を背負って下山したと言う。

続く


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