『三国志』魏書東夷伝倭人の条
「正始六年(245)五月。魏の母丘倹(かんきゅうけん)、高句麗に侵攻。楽浪郡の軍隊とあわせる。詔して倭の難升米(なしめ)に黄幢を賜い、郡に付して假授せしむ。
正始八年(247)太守王斤頁(おうき)、官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴(くな)國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯(さいし)・烏越(うえつ)らを遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史・張政らを遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。 」

■黄幢
女王国は二度にわたって「黄幢(こうどう)」なる旗物を中国から授かったと書いてある。
最初は仮授で、二回目はそれを持ってきて直接授受したから、同じものゆえ一本しかない。
黄幢とは鉄でできた湾曲したパイプに絹織物などで幾本もの房をたらした、騎馬いくさのときの旗印の一種である。
騎馬した者がこれを高く掲げて、そのあとを兵隊がついてゆくための目印であろう。一説には黄色い幡であるともされるが、このような実物の絵が残っている。


http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_09_15.htm
最上段は天蓋や衣笠のようなドーム型である。房が垂れている。下段にもうひとつのオブジェがついている。


■幢とは?
「幢」はチュワン(Chuang)」で、「飾り羽根のついた旗」を意味する字。
「(仏教のお寺に幟(のぼり)のような旗が立てられていることがあります。あれを幢幡(どうばん)といいます)。」
http://www9.plala.or.jp/majan/yogo05.html
幢がただの旗ならば、なにゆえに漢字にうるさい古代中国人が、「はた」の表記に「旗」「幡」そして「幢」と、いくつもの漢字を作り出さねばならなかったのだろうか?つまりそれぞれに形が違い、用途が違っていたからではないのか?どれもが同じ「はた」ならば、わざわざ別の漢字は作る必要が無い。

それぞれどう違うのだろうか?
旗・・・当初は長い棒の先に長い布切れを垂らすだけだったとされる。やがて布に横棒を刺し、両端をひもでひっぱりV字型の先端を棒ぼ先端にとりつけるようになる。この布が風にはためく音が日本ではそのまま「はた」音になった。中国では「き」である。



幡・・・ひるがえるという意味である。布切れ、ダスターなども幡。帳簿。軍旗。心がひるがえる=叛意の意味があるために軍事的な旗にはあまり使用されず、仏教などで用いることが多い。京都の宇治にある地名「木幡」はもともとは葬儀に使う「黄幡」、あるいは宿曜教の用語からだろうが、幡は死の匂いが強い漢字。



幢・・・一文字では「どう」と読む。軍隊の指揮に用いるかざりのついた旗である。また「母衣(ほろ)」「幌」の意味もある。つまり旗や幡よりも構造が複雑で、房や切れ込みなどを伴うから黄幢のイメージに最も近い。
角川書店『新字源』より
  
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                        母衣・ほろ

つまり形状には大差は無いが、旗や幡はただの布切れや、垂れ下がったのぼり状の布だけでもそう呼ばれたが、幢は幌のように構造が複雑で、軍隊に限定される「はた」であるらしい。つまり房やかざり羽が附属し、馬に乗って持つ軍旗であり、棒を組み合わせて作られるようなものである。

長沙の馬王堆遺跡から出たこのようなものは、旗物でも帛(はく)と呼ばれる。



■黒塚古墳U字型鉄製品
上に貼付した中国の黄幢画像の出処であるこのサイトを読んだ方はすでにおわかりだと思うが、奈良県天理市の黒塚古墳から出土した、U字型鉄製品というものがある。
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絹織物の繊維が付着していた。
扁平なU字型なので上の画像の最上段の傘とはちょっと違う。むしろ二段目のオブジェには似ている。

U字型鉄製品の周囲には、この下につくべき檀飾りや棒竿の部品であろうと思われる鉄製のパイプが多数まとめられており、その中にはV字型のパイプもあったと報告されている。これらを組み合わせるとおそらく上記の黄幢になるだろうと考えられるのである。このことは今度出版される黒塚の最新報告書にも書かれるのかも知れない。

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さて、女王国の使節だった「難升米」は黄幢を仮にもらった。
その後、中国の使者は直接その黄幢と檄文を持って訪問した。
少なくとも、銀印紫綬は複数貰い受けているし、難升米はそれを直接もらっており、銀印紫綬と黄幢はセットで彼のステータスとなっただろう。
卑弥呼は金印と黄幢と檄文をもらったのだからこれもステータスである。
金印、銀印・黄幢・鏡などの下賜品のすべてを難升米が持っていた可能性も実はある。
つまり叛意がなかったとは言えない。
志賀島の金印でさえ奴国の中心部でなく玄関先の志賀島に隠されていた。

黒塚古墳はヤマトの古墳としては最古級の3世紀後半から4世紀前半に作られ、画文帯神獣鏡があった。そして珍しく盗掘の少ない古墳で、それでも鎌倉時代に一度だけ、表面的な盗掘を受けている。床面までは達していないが中の遺物がいくらか動かされた可能性もある。というのは折れていたオール型木製品が、なぜか綺麗に並べられて石室外の敷石クローゼットに置かれていたからだ。するとこのU字型造形物は黄幢だったのだろうか?

三角縁神獣鏡はすべてが荒削りなコピーである。もしかすると南朝様式の神獣鏡を、突然やってきた女王国の使者に渡すために、大慌てでコピーしたことも考えられぬわけではない。「汝の好物」と、どこかしら仕方なく、わざわざ用意した語意が感じられる書き方をしたのはそのためだろうか?

いよいよ楽しみな調査報告書だと言える。


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