何をしているところでしょう?
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で、これはなんでしょう?




2006年10月のKawakatuのホームページ記事から抜粋紹介
■紫草(むらさき)の里「佐土知 しとち」
「久住連山から南東へゆっくりと降りてゆく稜線上の国道沿線。両側は谷になっており、西側は「川床」地区で大きな川・玉来川(たまらいがわ)が流れる。この川はやがて県下最大の大野川に合流。合流地点から竹田市市街地、豊後大野市、県都大分市丹生地区へ流れ出す。背後は高千穂の峰とも言われる祖母傾山系が遙拝できる。東側は複雑な地形の棚田がいくつも作られ、それぞれ細い道。その先に小部落がある。久住連山が吹き下ろす風はこの東側傾斜地を一気に駆け下りると思われる。10~11月頃の「おろし」はいわゆる秋の季節風・モンスーンである。若尾五雄『黄金の百足鉱山民俗学への道』によれば、たたら製鉄は開始時期はこのモンスーンの吹く11月であったと書いている。

中世から歴代の領主たちが大切にしてきたこの地域でも最も社格の高い城原地域周辺(城原は「きばる」と読み、近隣には鬼原地名もあるところから、本来は鬼原かと思える。)

西側の玉来川の名称は、この川からある種の玉が採れた、あるいは水源のある熊本阿蘇地方からの新技術、新文化の到来を思わせる。はるかなる祖母傾山系は多くの鉱物を古代から産出する。また北部に白丹温泉があり、白い丹という矛盾した名前は温泉成分である硫酸塩素、炭酸塩素を意味するか。

久住連山は九州最高峰で、その中の硫黄山は今も有毒ガスを排出する。この硫化鉱脈を抜けて潤島川(うるしまがわ)、久住川などが南下、地域名は朽網。漆職人、木地師の存在を感じさせるこの川の名前は連山反対側のK町の氏族である漆間氏を排出したか。
また朽網氏の氏族名は硫黄成分の多い久住水系の水が臭いことから「臭み」がなまったものと郷
土史では定説化している。

玉来川西地区は建築、土木、石工、造園などの技術業種が点在し、多くの横穴古墳が見られる。ゆるやかな上り坂の上には奈良に染料を提供し、貴族婦女子に尊ばれた「紫草の里」という部落があり、やはり横穴墓群とむらさき八幡宮がある。紫草栽培は現在、サフラン栽培に移行したが、紫色の花で高額な植物という点では同じ。サフランは食用と薬用。」
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/basteitaketa.html

■奥豊後古代紫草蘇生研究会
「奈良の東大寺の正倉院文書のなかに、今の竹田市でムラサキ色の染料となる紫草が栽培されていることが数年前に分かりました。紫草と書いて、ムラサキと詠むのだそうですが、草木染しかなかった時代には、紫草の根(紫根と書いて、シコンという)を使って紫の色を染めていたそうです。
 ムラサキは高貴な色として知られていますが、江戸時代までは最高権力者以外は身につけてはいけない色として、禁色とも言われています。従って、厳格な管理の下に栽培されていたものだと思います。栽培の場所も、栽培技術も特定の人たちにしか分からないものであったのではないかと考えられます。」
http://www.ashita.or.jp/publish/furu/f2005/38.htm

■では本当の紫草
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http://manyo.web.infoseek.co.jp/murasaki.htm
    韓人の衣染むといふ紫の 心に染みて思ほゆるかも
                          麻田陽春 

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花は薄紫。染織には根を使う。
染織も渡来技術だった。
遠く万葉の奈良時代、彼らは九州豊後の奥地や武蔵に住み着き、紫草を育ててきた。
やがて平安時代には、紫顔料は貝むらさきへと移行していく。
そうした中で竹田のしとちの人々は新たにサフランを育てるようになっていった。
「しどち」と呼ぶとしかられる。
渡来系の人々がいた場所は茨木、茨城にしてもやはり濁らない地名が多い。
今でも韓国語には濁音が少ないし、半島の人は濁音がにがてである。
同じようにラ行音ではじまる単語もほとんどない。
京都も、お公家さんは濁音を嫌った。
つまり貴種と技術者の多くは濁音が苦手な渡来系だったということになる。

    茜さす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
                           額田女王

 額田部は渡来系の乳部である。
そこから出た額田王(ぬかたのおおきみ)と天武天皇の恋はあまりに有名だ。
京都の紫野には王家の薬草園があった。おそらく紫草が育てられていたから地名も紫野となったのだろう。


■冠位十二階の最高位の色
それは仏教の袈裟の色にも反映されている。いずれも最高位のものが紫色を用いた。ゆえに紫草も広範囲で栽培されても見返りがあった。高額な顔料だったからである。
大分の佐土知地名は元は「紫土地」から来ている。

■シコン
紫草の根を言う。
「昭和五十七年に発行された歌人馬場あき子のエッセイ『きもの随想』には、岩手県盛岡の草紫堂主人が染めあげた南部紫根染が、既に珍品である由、紹介された。紫根染の伝統は他に京都と秋田ぐらいにしか残されていない。現在の紫色の布は化学染料である。紫草と紫染はまるで貴種流離譚のごとく流浪して北へ追いやられたらしい。」http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/tam/tama/nos/n008/n008t.htm


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