「奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)が、墳丘の周囲に敷かれた切石(きりいし)の形状から、飛鳥時代後期の天皇陵に特有の「八角形墳」であることが判明し、村教委が9日、発表した。

 この古墳は、大化改新で活躍した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の母、斉明(さいめい)天皇(594~661年)の墓の有力候補とされてきたが、今回の発見で事実上確定した。

 発表によると、墳丘北西のすそに、計約20メートルにわたって凝灰岩の切石(長さ約60センチ、幅、厚さ各約30センチ)が多数敷かれているのを確認。2か所の屈曲部の角度がいずれも135度で、正八角形の3辺分と判断された。縦横約22メートルの八角形墳とみられる。切石の外側には花こう岩を並べた跡があり、その外側には拳大の石が敷き詰められていた。」
YOMIURI ONLINE
Yahoo考古学ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100909-00000940-yom-soci

「 陵は天皇などの墓所を意味する。7世紀の女帝・斉明(さいめい)天皇の陵をめぐり、研究の大きな進展が見られる。

 奈良県明日香村の国史跡・牽牛子塚(けんごしづか)古墳が斉明天皇陵であるとほぼ特定された。村教育委員会の発掘で墳丘を八角形に囲む石敷きが見つかり、八角形墳と確認されたためだ。この時代の八角形墳は天皇家に特有な墳形とされる。

 内部には既に二つの墓室が見つかっている。日本書紀には、斉明天皇と娘の皇女が合葬されたとある。その点も踏まえ、多くの研究者は斉明陵との見方を強めた。

 勢力を誇った蘇我氏が滅ぼされた大化の改新(645年)の時代を生きた女帝である。天智天皇や天武天皇らの母だ。皇極天皇となり、いったん退位したが斉明天皇として再び帝位についた。

 朝鮮半島の百済救援のため軍を率いて出掛け661年、今の福岡県で亡くなっている。

 古墳が斉明天皇陵と特定されたことで、当時の飛鳥時代の姿がよりはっきりしてくる。

 それまでの天皇陵は、豪族と同じ前方後円墳がほとんどだった。八角形墳は、豪族から超越した地位を示す意図だろう。

 女帝は土木工事に力を入れ、大きな運河を掘り、石を船で運んで山に石垣を築いた。多くの民衆が動員された。阿倍比羅夫を北方に遠征させている。これらは自らの王権の神聖化、強化を狙ったものとみられる。

 古墳には多くの巨石が運ばれて使われた。亡き女帝の権威を誇示したと考えられる。別の所に葬られここに改葬されたとの見方もある。後のどの天皇がこの陵を造ったかも興味深い。

 宮内庁は、奈良県高取町の古墳を斉明陵に指定している。今回、牽牛子塚古墳が斉明陵と事実上特定されたが、現時点では指定を変える考えはないという。

 理由として▽八角形墳は関東でも見られ、必ずしも陵墓特有の形とはいえない▽斉明天皇は古墳築造で民衆を苦しめるなと遺言したとされ、牽牛子塚の巨大な石室と合致しない-などを挙げる。

 見極めるべき論点である。ただし、学界で斉明天皇陵との見方が定着したら、これまでの指定を見直すことが必要だ。

 歴史は、考古学的な発見によって書き換えられ、より詳しいことが分かってくる。今回の八角形墳の確認もその一つだ。大化の改新と律令(りつりょう)国家の形成、女帝の活躍などに目を向け、日本の歩みに理解を深めるいい機会である。」
信濃毎日新聞http://www.shinmai.co.jp/news/20100912/KT100911ETI090001000022.htm

「 八角形墳とわかり、斉明天皇陵とほぼ確定した明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)。7世紀の天皇陵の特徴とされるが、方形や円形の古墳が主流のなか、なぜ八角形にしたのか。専門家からは「天皇が死後も国を治めることの象徴」「中国思想の道教の影響」といった様々な意見が出た。

 同村で9日行われた記者会見で、村教委の西光慎治技師は「牽牛子塚古墳の墳丘は、南海・東南海地震で度々被害を受けており、大きく崩れ、元の形をとどめていなかった」と説明。「墳丘すそを帯状に巡る凝灰岩の角が135度だったため、正八角形の古墳とわかった」などと説明した。
 同古墳のほかに、飛鳥周辺の天皇陵では、文武天皇陵とみられる中尾山古墳や天武・持統天皇陵などが八角形墳と確定している。
 形状を探るのに、「万葉集」に記された枕ことば「やすみ(八隅)しし」に注目するのは、和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)。「八角形には隅々まで、すべてを治めるという意味がある」とし、「天皇が座った高御座(たかみくら)も八角形で、天皇が生前だけではなく、死後も国を治める象徴にしたのだろう」と説く。
 また、千田稔・県立図書情報館長(歴史地理学)は、八角形を天皇の権力の象徴と分析。「八方位で世界を表す道教の思想に基づいている。『天皇』という称号自体、道教の最高神の名称から来ている。天皇指導型の政治の時代を、八角形が示している」と主張する。
 一方、猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は、「地方豪族などの中で八角形の古墳が造られ始めており、それにヒントを得たのではないか。天皇陵を八角形にしたことで、地方では八角墳は造られなくなっていった」と主張。「飛鳥の天皇陵の形状は一つひとつ個性的だが、八角形であるということが共通している」と話している。」
(2010年9月10日 読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20100909-OYT8T01235.htm

■ポイント
なかなか認めない宮内庁
「 宮内庁は、奈良県高取町の古墳を斉明陵に指定している。今回、牽牛子塚古墳が斉明陵と事実上特定されたが、現時点では指定を変える考えはないという。
 理由として▽八角形墳は関東でも見られ、必ずしも陵墓特有の形とはいえない▽斉明天皇は古墳築造で民衆を苦しめるなと遺言したとされ、牽牛子塚の巨大な石室と合致しない-などを挙げる。」

天皇陵としての八角形墳を宮内庁がなかなか認めたくない理由のひとつに、明治、大正、昭和各天皇陵が上円下方墳であることがあるだろうか?昭和天皇の崩御した昭和65年(1990年代)あたりまでは、天皇陵は上円下方墳との認識がまだ一般的だった。しかし当時すでに考古学界では天武・持統陵の実例、江戸期の幕府による陵墓改修によっていくつかの陵墓が本来の八角形から、かってに上円下方形への「思い込み改ざん」が実施された資料などなどから、天皇の陵墓は八角形なのではないか?という疑問が出ていた。
特に道教に深い造詣があった天武天皇の陵墓が八角形墳であることは、宮内庁も認めざるを得なかったわけであろう。しかしそれ以前の「天皇」は、実質「天皇」とは呼べず、「大王」とせねばならないのも事実。
となると必ずしも「天皇大王陵=八角形」という考え方は通用しないとも言えることになろう。

飛鳥時代以前の大王墓はその多くが前方後円墳を旨としてきたと考えられている。
つまりこの前方後円墳というステータスは、飛鳥王朝の墳形ではなく、その前にあった河内王朝と、そのまた前の時代の大和にあった小さな大和盆地の連合国家(この時点でまだそれが女王の邪馬台国とは言えない。纒向は三輪王朝の遺跡である可能性が高い。)の古墳なのである。だから継体大王までは前方後円墳で間違いなかろうが、欽明大王以降の飛鳥王朝以後の大王・天皇墓からは次第にではあるが墳形は変わっていくと考えるべきだろう。

そもそも牽牛子塚を「古墳」と呼んでいいのかどうかも非常に問題ではある。もちろん高松塚にしてもそれは言える。
厳密に言えば前方後円墳、円墳、方墳、前方後方墳という一群こそが「古墳」であり、それらが造られる時代だからこその「古墳時代」という時代区分であるはずだ。

■石の女帝
斉明女帝は石造物フェチである。
明日香の多くの石造物は彼女の作らせたもので、それらは海外からの遣使に見せ付ける威信財、道しるべだったとされている。
けれど斉明女帝の時代、東アジアは大混乱の時代。前王家の蘇我王朝は新羅・百済とはよしみを持てたが、中国からは無視されていた。そんな中で斉明時代に中大兄皇子が百済援助で軍を出し大失敗した。斉明も伊予まで行ったと、勇ましい書き方をされた。
つまり明日香の石造物群は半島からの使者の歓迎用であっても、唐に向かってのものではないこととなる。

■飛鳥時代の天皇陵は八角形?
では続く奈良時代以後はどうなるのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%B5#.E5.8F.A4.E4.BB.A3
を見ると八角形とされているのは天武・持統陵やそれ以前の天智、舒明陵墓など数少ない。これでは天皇陵=八角形とは決めにくい。聖武が山形で、この時代は山形が多くなる。そして桓武になると円丘が流行。その後バラエティに富んできて、明治天皇ははじめて上円下方墳に埋葬されている。

1上円下方形は明治天皇まで一度も採用されていない。だから宮内庁が上円下方にこだわる根拠はどこにもない。
2だからと言って八角形にこだわる必要もない。
3八角形はグローバルな飛鳥時代に限られた墳形

だったとなろうか?
ただし、考古学が推察している陵墓が本当にその大王、天皇のものなのか?という根本的問題はこれからも決して確定は不可能であることも間違いない。

■『日本書紀』が娘を同時埋葬したと書いてある・・は理由にはならない。
考古学が史学に影響される必要はないし、文献学者が待ってましたとばかりに文献を証拠にするのは理にかなっていない。こういう新聞受けする物言いはいい加減にやめて欲しいところだ。特に大和の頭の固い学者がこういう大向こう受けする発言をしたがるので、早く消えてもらいたい。


そのまま書く新聞も読者を増やしたいがための「大本営」発表に等しい。だから新聞は信用がない。

むしろ考古学の方からは、ふたつの石室、石棺があった。ゆえにこれは追葬墳という新しく大和が採用した墳墓。石室、石材、様式のすべてが飛鳥時代の後半の形式に合致するからおそらく天智以前、蘇我氏以後の有力者のものだろう・・・あ、そういえば『日本書紀』に・・・
という言い方にならなくちゃ。
まるで坊主と葬儀屋のように「それ見たことか」とくっついて言わなくてもいい。


クリッククリクリ!↓

If you feel this article if interesting, please make a ranking click. I ask!
재미있다고 생각하면 클릭 잘! ↓
刚想==有趣单击适当地!↓
↓       ↓          ↓
With2ブログランキングへ

ご注意:すべての記事に「ヤフーブログ専用の見えないIP読み込みタグ」がついています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Kawakatu他のサイトへのリンク
Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php