凡例
愛知の地名は『地名用語辞典』によれば「年魚市」から来たとされている。
しかし三鬼清一郎編『愛知県の歴史』によると諸説あり、
しかし三鬼清一郎編『愛知県の歴史』によると諸説あり、
1 年魚市潟説・・・『尾張国?風土記』(本文にどこの風土記かの説明がない)の俗謡から来た
年魚市潟とは鳴海浦から熱田台地南方の浅い海。尾張氏の勢力圏で熱田神宮に深い 関わりが。柳田國男は『万葉集』「年魚の風」から「あえ」=神からの幸。
年魚市潟とは鳴海浦から熱田台地南方の浅い海。尾張氏の勢力圏で熱田神宮に深い 関わりが。柳田國男は『万葉集』「年魚の風」から「あえ」=神からの幸。
2 あゆちの水説・・ 『万葉集』「あゆちの水」を湧水と解釈した『尾張誌』(天保13年編纂の地 誌)記事から。名古屋市南区にある笠寺台地から湧く水から。年魚道説。
3 あゆち村説・・・・津田正生『尾張国地名考』(江戸時代)から、『日本書紀』が熱田神宮周辺を 「吾湯市の村」と記すことから
に大別しているが、これは大別の仕方があまりよくない。
見たところでは、大別するなら5つにならねばならないだろう。
見たところでは、大別するなら5つにならねばならないだろう。
1 柳田國男説 『万葉集』年魚の風から
2 『尾張国風土記』俗謡にある「年魚市潟」から
3 『万葉集』「あゆちの水」から
4 おなじく「年魚道」から
5 『日本書紀』「吾湯市の村」から
2 『尾張国風土記』俗謡にある「年魚市潟」から
3 『万葉集』「あゆちの水」から
4 おなじく「年魚道」から
5 『日本書紀』「吾湯市の村」から
しかし、よく考えてみれば、すべて先に「年魚市」「年魚道」「年魚市水」「吾湯市村」など共通して「あゆ」「あゆち」地名があったことになって、実は地名解説になり得ていないことに気づく。
どの解説も、先に「あゆ」地名があり、それに道、水、風、市、村をつけただけの解説に終っている。
問題はなにゆえに熱田界隈に鮎がいるかだとなるまいか?
鮎がいたからこそ、あゆを商い、あゆを地名としたしてよいのかどうかの解説も、まったくなされていない。そもそも「あゆ」は「年魚」だったのかどうかが問題。
鮎がいたからこそ、あゆを商い、あゆを地名としたしてよいのかどうかの解説も、まったくなされていない。そもそも「あゆ」は「年魚」だったのかどうかが問題。
よく、神功皇后の鮎で占う伝説が付記されているのを見かけるが、あの舞台は福岡県であって、愛知県と鮎はそもそもなにも関係ある記録などないのではなかろうか?
なぜ「あゆ」が「鮎」だと思い込むのだろうか?そもそもそこから始めなければ地名由来にはならないと思えるが?
なぜ「あゆ」が「鮎」だと思い込むのだろうか?そもそもそこから始めなければ地名由来にはならないと思えるが?
「ち」は柳田などが言うように確かに「風」の接尾語だろう。また「道」も「ち」と言う。「市」も「ち」と簡略にした可能性はあろう。そもそも「ち」をどのように解釈しようと問題なのはあくまで「あゆ」であろう。ゆえにすべてを認めて「ち」を接尾語とするならば、「あゆ」とはなにか?
鮎と書けばそれは「占う魚」で、これは和製漢字・・・国字となる。中国の鮎はナマズ類を指し、あちらでは鮎もナマズも占いに使われたので、日本で「鮎」をあてたのはあきらかな勘違いだとなる。最初から間違って覚えた日本だけの誤用であろう。
『日本書紀』が神功皇后が年魚で占ったからなどと書いてあろうと、そんなものはなんのあてにもならぬ。それ自体が誤用だと解釈すれば、鮎=あゆは日本でしか通用しない、歴史的誤用だと解釈して破棄してもかまわない。
『日本書紀』が神功皇后が年魚で占ったからなどと書いてあろうと、そんなものはなんのあてにもならぬ。それ自体が誤用だと解釈すれば、鮎=あゆは日本でしか通用しない、歴史的誤用だと解釈して破棄してもかまわない。
この地名解釈には、どこにも整合性が見て取れず、愛知県人はこれをいちから考え直すべきだろう。
百歩譲ってでは愛知の川で鮎が多かった川とは?
明治以前、鮎のあふれるほどの川など日本中にある。
決め手などあろうはずもない。
ましてそれがなぜ尾張氏や熱田神宮に関係する地名だと決め付けたのだろうか?意味不明。
明治以前、鮎のあふれるほどの川など日本中にある。
決め手などあろうはずもない。
ましてそれがなぜ尾張氏や熱田神宮に関係する地名だと決め付けたのだろうか?意味不明。
尾張は尾張、三河は三河で、どこにも「あゆ」などでていないではないか?
この二国と、美濃の海岸部の一部くらいまでを最古には「あゆち」と呼んでいたのならそれが「あいち」になったということになる。その最古の記録は『日本書紀』だ。それは風だろうが水だろうが、そこになにがあろうとも「あゆ」が最も古く、最も大事な地名の根幹部なのであって、「ち」はおまけに過ぎないのに、上の解説はどれもこれも「ち」にこだわり、肝心の「あゆ」のほうはほったらかしである。
この二国と、美濃の海岸部の一部くらいまでを最古には「あゆち」と呼んでいたのならそれが「あいち」になったということになる。その最古の記録は『日本書紀』だ。それは風だろうが水だろうが、そこになにがあろうとも「あゆ」が最も古く、最も大事な地名の根幹部なのであって、「ち」はおまけに過ぎないのに、上の解説はどれもこれも「ち」にこだわり、肝心の「あゆ」のほうはほったらかしである。
「あゆ」とはいったい何ですか?
歌手じゃ無し、魚じゃなく、どういう意味なのでしょうや?
そもそもなぜ鮎のことを「あゆ」と呼んだのだろう?
地名解説は語彙の解説を最初にしておかねばならぬ。
「吾湯」は万葉仮名であるならば、そこには大した意味がないわけで、ただの音の表記の一つに過ぎない。「湯」文字には「ゆえ」という意味があってそれは「乳母」「養育者」「産湯」などの古代史に関与する意味がにわかに生じてくる。「吾」は「あ」で、我が、わたしのこと。
歌手じゃ無し、魚じゃなく、どういう意味なのでしょうや?
そもそもなぜ鮎のことを「あゆ」と呼んだのだろう?
地名解説は語彙の解説を最初にしておかねばならぬ。
「吾湯」は万葉仮名であるならば、そこには大した意味がないわけで、ただの音の表記の一つに過ぎない。「湯」文字には「ゆえ」という意味があってそれは「乳母」「養育者」「産湯」などの古代史に関与する意味がにわかに生じてくる。「吾」は「あ」で、我が、わたしのこと。
しかるに、尾張には「ゆえ」=「湯のうながし」=湯坐という役職があったのではないのか?
尾張氏がいた場所が「あゆ」なのだから三河地方はこのさいはずすべきか?
尾張氏がいた場所が「あゆ」なのだから三河地方はこのさいはずすべきか?
さまざまな不満が生じてくるのが地名解釈だ。
そもsもが、これまでの解釈自体、「地名解釈」の解釈ができていなかったのではないか?
あなたもわたしもみんな勉強やり直し。
そもsもが、これまでの解釈自体、「地名解釈」の解釈ができていなかったのではないか?
あなたもわたしもみんな勉強やり直し。
簡単に納得しちゃだめでしょう。
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コメント
コメント一覧 (16)
愛知県も三河の一色町などはうなぎの養殖日本一ですが、意外と知られていないのが、ナマズ料理。蒲焼を食べさせる店が沢山あります。
これが大好物でよく通いました。
kawakatu
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愛知というと「甘辛味噌」という感じ。鶏の煮込みウドンは食べたことあり。西日本人には八丁味噌は濃すぎて手に負えん。^^
そこでどうしてもほかの味噌と合わせる。九州は味噌は信州に近いあわせですね。わたしは麦味噌派。
ウナギなどの味付けはやはり関東風ですね。甘辛いがいい。煮魚も甘辛が好き。関西風だと生臭くなる。
群馬はコンニャクの甘辛風なんか名物じゃなかったですか?
食い物の話になっちゃった。たのしいからいいか。
kawakatu
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名古屋のウナギは、蒸さないで直焼き、こってりタレなので、関東ともちょっと違います。ナマズの食べ方は群馬の利根川沿いと同じですね。私もウドンはともかく、八丁味噌だけは苦手でした。
群馬の名産はコンニャクと下仁田ネギですか。どちらも、パッとしないですね。後者はスキヤキにすると旨いですが。
ところで、ナマズ文化を尾張人移住の証拠にしようと思いましたが、三河では無理ですかね!!
kawakatu
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kawakatu
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kawakatu
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kawakatu
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kawakatu
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kawakatu
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kawakatu
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「阿閉」は「贄」です。鮎は贄の筆頭です。と、そういう手順はわかりやすくなります。グッド!
kawakatu
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kawakatu
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「あゆ」になってしまうにはちゃんと訳があったはずですからね。
一般解釈が愛知を「あゆ」起源から始めているのは本末転倒だとここに私が書いているのね。
そうではなくて鮎になってしまったその理由からはじめなければ地名解釈にならんのです。するとあなたや柳田が言うように「あへ」=物品の税だったところまで行かねば意味がないのです。
そしてその阿閉を出した地域というのは要するに、尾張なら海部なわけで、これは中央王権への隷属を示していることになるわけです。
熱田や尾張氏やその部民である海部、海人族の早い時期の中央隷属。
それゆえの反発・・・歴史というのものがそこに追及されていないような地名・人名解釈にはまずもって肯首しかねると申しておるわけです。私がですよ。
kawakatu
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神の幸ではなく「神への」贄でしょうね。
伊勢ならアワビと水銀ですね。
淡路も安房(千葉)もアワビが起源で、やはり海人族の本拠地だった。米が払えないものを百姓(ひゃくせい)の外の者=被差別民と言います。つまり海人族は天皇制の埒外にあった。彼等が差し出すのは海産物や労働力だったわけです。
半島の伽耶という地域から鉄をもらうために葛城氏が差し出した労働力というのは彼等でしょうし、また纒向に東海系土器が多いのも東海地方の人々が労働力として招聘されていたということになるわけです。
纒向に九州の土器が少ないということは、逆に考えると、九州は隷属していないという考えに行き着かなきゃならないわけです。というこおとは九州系の人々が纒向の為政者ではないのか?と考古学者は考え付かねばならないのに、そうはならない。纒向を発掘しているのが畿内説ガチガチの石頭の奈良県人だからでしょう?
ぼくの着想はそういう既成学問ののほほんとした常識をぶっこわすためにあるヒントなわけね。どんどん利用されたし。畿内の学者はまったく信用ならんですか
kawakatu
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それと熱田は製鉄技術などですな。差し出して帰順を誓う。
贄というのは、神饌というのはつまり税金の現物支払いなのです。
kawakatu
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kawakatu
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伽耶由来氏族として同族。
吾道(あち)とは伽耶山脈の山の名前である。
「あち」は長野県、岡山県の地名。
つまりこれら七氏族は伽耶を出て出雲、吉備に入り、近畿へ移住した先住氏族である。
阿知使主
阿知使主とは東漢氏(やまとの・あうあ・うじ)の祖人である。
穴織宮伊居神社(大阪府池田市綾羽町2丁目4-5)
東アヤ氏は秦氏とともに、伽耶滅亡時に列島へ逃亡してきた渡来支族である。
「あゆち」と「あち」
あゆちは尾張氏の本拠地名古屋のこと。かつての岐阜あはちまの海。「あわしま」から。
尾張氏は近畿では物部氏と同族化した海部氏族。
以上。今わかっているのはここまでです。それ以上は無理でしょうね。
kawakatu
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