揺れる考古学界の残されている諸問題
1 稲作は本当に半島の寒冷化によって九州へ南下したのだろうか?
2 摂津などの例外もあるが、九州の墓制である支石墓、甕棺、箱式石棺墓(あるいは九州式石剣など、それにともなうはずの祭祀・葬祭様式や観念もふくめて)なにゆえに東へ移動しなかったのか?
3 方形周溝墓は本当に近畿発でいいのか?
4 弥生渡来は北部九州だけに起こったのか?
5 北部九州甕棺遺体は本当に縄文対弥生の攻防だったのか?
6 邪馬台国を築いたのは本当に半島からの渡来人だったのか?

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検証
■「(水耕稲作は)半島から朝鮮半島を南下して九州北部に伝来したという説があったが、
遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと
朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米(陸稲)の確認しか取れない点
極東アジアにおける温帯ジャポニカ種(水稲)/熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部から当該遺伝子の存在が確認されないこと
などの複数の証左から否定されつつあり、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来である学説が出始めている(従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられている)[8]。また池橋宏は長江下流域から、山東半島、朝鮮南部を経由して北九州へ伝来という説を唱えている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3

■「朝鮮半島の支石墓や石室墓には、日本に流入する有柄式磨製石剣や柳葉形磨製石鏃ととともに赤く塗った円底の壺(P-図8)が伴い、中継地の対馬・美津島町鶏知などでも同系統の円底壺が出土している。稲作農耕が開始された曲り田遺跡では、朝鮮の無文土器に属する丹塗磨研の円底壺と夜臼式の壺が共伴(P-図9)している。また朝鮮系無文土器は、その後も弥生中期はじめまで、福岡平野や佐賀平野を中心とした九州北部や本州西端部に出土しており、朝鮮半島南部からの渡来が何波にもわたったことを示している。
さらに弥生前期末から中期初頭の九州北部の墳墓は、朝鮮系の支石墓や箱式石棺墓、土壙墓(木棺)などのほかに、壺形土器を大形化した金海式甕棺墓(P-図10)が出現し、 これらの墓の副葬品として、朝鮮製の青銅器類が現れる。多鈕細文鏡や細型の銅剣・銅戈・銅矛(P-図11)がそれで、これらの青銅器類に縄文系の硬玉製勾玉が加わり、墳墓以外から朝鮮系の天河石製勾玉が出土することもある。福岡市飯盛高木遺跡第3号木棺墓からは、多鈕細文鏡1、細形銅剣2、細形銅戈1、細形銅矛1、勾玉1、管玉約百が出土(P-図12)し、鏡・剣・玉の三種の宝器をセットにする日本での最古例となった。
多鈕細文鏡や青銅武器、玉類を副葬する墓は、飯盛高木遺跡のほか唐津市宇木汲田遺跡甕棺墓(P-図13)、下関市梶栗浜遺跡箱式石棺墓に限られ、東方への波及は大阪府柏原市大県遺跡と奈良県御所市長柄で多鈕細文鏡が出土しているが、長柄の場合は銅鐸と一緒に出土しており、九州北部の副葬鏡とは明らかに性格が異なっている。」
 朝鮮半島南部には、九州北部からもたらされた弥生時代の土器や遺物がわずかながら出土している。1934年、慶尚南道金海市の会?里貝塚で、3基の合口甕棺が発掘されたが、この甕棺の形態は、九州北部で出現する金海式大型甕棺と同じである。この会?里3号甕棺の下から細形銅剣2本、銅製釶8本以上が出土している(P-図14)。
 また同じ金海市の池内洞甕棺墓では、朝鮮系無文土器と縄蓆文を施す軟質の広口壺を合口式の甕棺とし、これを埋めた土壙内に、九州北部の弥生中期後半の丹塗り磨研の袋状口縁壺を副葬していた(P-図15)。このほか釜山市朝島貝塚からは、口縁部が「く」の字形の九州北部の城ノ越系(弥生中期初頭)の土器が出土したという報告もある。土器以外では、弥生後期に九州北部で生産された中広形銅弋が、慶尚南道大邱市晩村洞遺跡から出土している。」
http://www.okunomasao.com/saikin/rekinenndai/rekinen.htm

■「武末(純一)氏は朝鮮半島の青銅器の編年(1~5期・遼寧式銅剣をⅠ~Ⅲ式と擬Ⅰ式に分ける)を無文土器の編年に組み込むことによって、下記のような交差年代を求めている。(註6:武末純一2002年、 2003年、2004年)。
早期    沙里式(刻目突帯文甕)
 前期    可楽里式(二重口縁短斜線文甕)・駅三洞式(孔列文甕)・欣岩里式(孔列短斜線文甕)
       前期の年代の一点は前9世紀に該当する。遼寧式銅剣は前期から中期後半まで存在する。
 中期前半 先松菊里式~休岩里式(直口縁甕・単斜線文甕)。
 中期後半 松菊里式(外反口縁甕)。前期後半は前2世紀に相当する。

 後期前半 水石里式(断面円形粘土帯口縁甕)。青銅器2期~3期古段階が水石里式期(後期前半)に相当。後期前半の下限(青銅器3期古段階)は前3世紀後半(辛庄頭30号墓の細形銅戈)。後期前半の上限(青銅器2期)は前5世紀までさかのぼるか?細形銅剣出現期(青銅器2期)は遼寧式Ⅱ期よりも古くならない。遼寧式銅剣Ⅱ式は無文土器中期前半までさかのぼる可能性がある。青銅器2期の上限は前4世紀ではないか。

後期後半 勒島式甕(断面三角形粘土帯口縁甕)。青銅器3期新段階が勒島式に相当。
 これらの無文土器の一部(P-図4 丹塗り壺)が九州北部に搬入されて、夜臼式の壺と共伴する(P-図9 曲り田遺跡)。」
http://www.okunomasao.com/saikin/rekinenndai/rekinen.htm

■!!アミルタマンガラム遺跡の甕棺墓!!
「南インドの文化が遥々日本に影響を与えたとすれば、同時に朝鮮半島に影響を与えたとしても不思議ではない。これは、問の「言語の仲介地」ではなく、朝鮮半島が日本列島と同時に同じ言語の影響を受けたという証明に過ぎないのではなかろうか。
 
 要はタミルと日本の文化の平行について大野晋は、自ら言語学の範疇を越えて文化的側面から、その正当性を証明しようと試みたにも拘わらず、7000キロの距離を越えてタミルの文化が日本列島に到達したという、説得力のある説明が出来ないでいる。この点もタミル語日本語同系説が受け入れられない理由の一つであろう。

   タミル語と日本語のミッシングリンク

 筆者は、大野晋の稲作に関する同系の語彙の発見、この素晴らしい成果をタミル人が北部九州に渡来して稲作を伝え語彙を残したという、荒唐無稽な文化伝播説に埋もれさせてはならないと思うのである。
  
“南インドの文化と弥生文化”に共通する上記5項目のうち、筆者がとりわけ注目するのは甕棺墓が両方の文化で同時期に存在することである。
 甕棺墓は幼い子供を葬るときに、しばしば各地で使われる墓制である。日本でも縄文時代から存在するし、東アジアや東南アジア各地で見られる。
 しかし大人の墓制としての甕棺墓は必ずしも普遍的ではない。

 第3部04.項で詳しく見たように、日本列島でも北部九州の、それも福岡・佐賀両平野に一時 的に存在しただけである。
 弥生前期末、突然北部九州平野部に出現し、弥生中期中葉に最盛期を迎え、その後弥生後期には衰微してしまう。
 一つの集団墓地には甕棺墓が数百~数千の規模で埋まっている。     
 大野によると、これと同様の甕棺墓群が南インドでも見られるそうである。(下の写真は大野自身が撮影したものという)
  
 南インドの甕棺は、インド巨石時代のはじめ、紀元前1,000年ごろから南インド全体に広汎に存在し、たとえばタミル州南端に近いアーディチャナルールという所には、何万という甕棺の原があるという。また大野が実見した上の写真のアミルタマンガラム遺跡も、数百規模の甕棺墓群があるという。
 大野はこうした事実から、タミル人がタミル語とともに甕棺とそれを墓として使うという思想・習慣を北部九州に伝えたと言いたいらしい。」
インドの甕棺墓画像つき記事→http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_06tamiru_go_to_nihonn_go.html


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これらの疑問点についての明確な実証が筆者には未だに見つけられない。
決して謎は解けてはいない。

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