⑦ イキシミミ (安寧紀 孝昭紀)   
イキシミミ(息石耳)は古事記には登場しないが、日本書紀の安寧紀によると第三代安寧天皇の第一子として生まれている。次の第四代の皇位には、弟のオオヤマトヒコスキトモが就いたが、このヒコスキトモ(威徳天皇)の妃アメトヨツヒメはイキシミミの娘である。さてイキシミミの「息」だが、私はこれを「壱岐」に当てたいと思う。古事記には「息」を名に持つスーパースターがいる。それは「息長帯媛(オキナガタラシヒメ)」すなわち神功皇后である(書紀では「気長足姫」だが、読みは同じ)。ヒメは近江の豪族・息長氏の苗裔ということになっているが、この息長氏にしてからが「壱岐長氏」、つまり壱岐国の長(王)の出身ではないかという疑いを持つ。

⑧ スエツミミ (祟神記・紀)
祟神紀の7年に、国内がなかなか治まらないのを心配した天皇が神慮を問うたところ、夢に大物主神が現れ「わが子オオタタネコにわれを祭らせよ」と教えた。そこでオオタタネコを茅渟(ちぬ)県の陶邑(すえむら)に探し当て、連れてきて祭らせたという記事がある。スエツミミは陶邑(須恵村)すなわち大阪府の和泉地方にあったとされる須恵器の一大産地のミミ(主)で、娘のイクタマヨリヒメに大物主神が通じて生まれたのがオオタタネコである。オオタタネコはオオタ・タ・ネコと分けて「大田の根子」であり「大規模な田を所有する土豪」と解釈され、これはオオナモチ(大名持、大穴持)と同義であり、結局のところオオクニヌシと通底しているわけで、大物主神を祭るには最適の人物といってよい。
このオオタタネコに至るまでの三代の系図を示すと、ミシマミゾクイミミから始まるの三代とそっくりなことに   気づく。

      スエツミミ――――イクタマヨリヒメ
                      ∥――――――オオタタネコ
                   大物主神(出雲系)

     ミシマミゾクイミミ―――タマクシヒメ
                       ∥―――――ヒメタタライソスズヨリヒメ
                    事代主神(出雲系)
⑨ フトミミ (垂仁紀)
フトミミ(太耳)は垂仁紀3年3月の条の長文の注記に「但馬出嶋の人・太耳」とまず一回記され、今度は同紀88年7月になって本文中に別名の「マエツミミ(前津耳)」として再び登場する。しかし後の方では本人自身のことではなく娘マタノオの父としての登場である。この形は⑧で述べたスエツミミ、ミシマミゾクイミミと同じだが、大きく違うのが娘の婚姻の相手が出雲族ではなくアメノヒホコという朝鮮半島からの渡来人であるということだ。半島からの渡来人の初見は祟神紀65年で、任那国からソナカシチが朝貢してきたという記事で、次の垂仁紀ではそのソナカシチが帰ったという記事の注記には、前代つまり祟神朝の時にツヌガアラシトという大加羅国の王子が渡来したことと、その経緯を詳しく載せている。これらの記録が正しければソナカシチ(任那国・朝貢)、ツヌガアラシト(大加羅国・帰化)、アメノヒホコ(新羅国・移住)という順に、祟神朝の末期から垂仁朝の初頭にかけて、それこそバタバタと到来したことになる。フトミミは「太耳」と書くが、この太いは「大きい」の意味だろうから、フトミミとは「大王」のことである。アメノヒホコを半島から案内した手段は当然ながら船(船団)で、したがってフトミミは相当な「航海王」ということになる。おそらく九州北岸に拠点を持ち、半島との交易を通じて新羅、その頃はまだ辰韓と言ったが、そこの王子ヒホコの知遇を得たのだろう。

⑩ トヨミミ (神功紀)
神功皇后紀の摂政前記の中に一箇所だけ出てくるのがトヨミミ(豊耳)で、紀直(きのあたい)の祖となっている。紀直といえば、景行紀3年に武内宿禰の父として「紀直の遠祖ウジヒコ」がまず登場する。ウジヒコは孝元記によれば「ウズヒコ」でなくてはならず、ウズヒコ(珍彦)は神武東征船団の先導者(パイロット)として 活躍し、その功績によって倭直になった人物で、もし景行紀の記述が正しいとすると、ウズヒコは倭直であると同時に紀直の祖先でもあることになる。したがってトヨミミはウズヒコの子孫であり、武内宿禰の後裔でもあることになる。     
遠祖のウズヒコが航海民であることは明らかであり、そうなるとその子とされる武内宿禰も記紀の大臣・内臣という地位からは想像しにくいにしても、航海民の血を引く人物であったことになる。ひとつだけ航海民らしい働きをした記述が「(武内宿禰が)皇子(ホムタワケ)を懐きて、横(よこし)まに南海より出でて、紀伊水門に泊まらしめ・・・」(神功皇后・摂政前紀2年)で、武内は北九州から南九州を回り、黒潮ルートで紀伊に行っているのである。

⑪ オオミミ・タリミミ (肥前風土記)
値嘉嶋 [郡の西南の海中にあり。とぶ火家、三所あり]
昔、景行天皇の巡行したまいしとき、志式嶋の行宮にましまして西の海を御覧ずるに中略)二つの嶋は嶋ごとに人あり。第一の嶋の名は小近(おちか)にして、土蜘蛛オオミミ(大耳)居り。第二の嶋の名は大近(おおちか)にして、土蜘蛛タリミミ(垂耳)居り。自余の嶋は、みな人あらず。ここに(安曇連)百足、オオミミ等を獲て奏聞すれば、天皇、詔してまさに誅殺せしめんとし給いし時に、オオミミ等、叩頭して陳奏しつらく「オオミミらが罪は実に極刑に当たれり。誅殺さるるとも罪をあがなうに足ら    ここに天皇、恩を垂れて赦したまい、さらにのりたまわく「この嶋は遠けれども、なお近きがごとく見ゆ。近嶋と言うべし」とのりたまいき。よりて値嘉嶋と言う。(中略)かの白水郎は馬牛に富めり。或は百余り、或は八十余り。(中略)この嶋の白水郎は、容貌隼人に似たり。つねに騎射するを好む。その言語は俗人に異なれり。

⑫ クガミミのミカサ (祟神記)
古事記の祟神記に登場するこの人物は、上の人物群のように名の最後にミミを付けていないので外しておいたが、「クガミミ」だけでも取り上げてみたい。
クガミミとは「クガの王」で、「クガ」とは「久我」(現在の京都市北部)で、実は南九州の曽の山に天下ったカモタケツヌミが、大和の葛城地方を経て最終的に山城のこの「久我国」に行き着いているのである。したがってミカサという名のこの久我王は、カモタケツヌミの後裔に他ならない。