古事記、日本書紀に見る「ミミ」名人物は次のように11人がいる(ほかに肥前風土記から2人。都合13人)。
① マサカツ・アレカツ・カチハヤヒ・アメノオシホミミ (神代紀)
これは人物というには当たらないかもしれない。アマテラスオオミカミとスサノオノミコトとが「うけひ」をした時に、アマテラスが身に着けていたミスマルノ珠などの玉類を物ざねとして生まれた五男神の長子がオシホミミである。この長男をアマテラスは地上(葦原中国=あしはらのなかつくに)に降ろして治めさせようとしたが、その頃 地上はまだ騒然としていた。そのため高天原から追放されたスサノオの先導によって国造りに成功したオオクニヌシに、国譲りをさせることになった。
これは人物というには当たらないかもしれない。アマテラスオオミカミとスサノオノミコトとが「うけひ」をした時に、アマテラスが身に着けていたミスマルノ珠などの玉類を物ざねとして生まれた五男神の長子がオシホミミである。この長男をアマテラスは地上(葦原中国=あしはらのなかつくに)に降ろして治めさせようとしたが、その頃 地上はまだ騒然としていた。そのため高天原から追放されたスサノオの先導によって国造りに成功したオオクニヌシに、国譲りをさせることになった。
② タギシミミ (神武記・神武紀・綏靖紀)
神武紀によると、タギシミミは日向時代の神武天皇と日向の吾田のアイラツヒメとの間に生まれている。神武は45歳にして東征に出発した。このあと東征の航路、ナガスネヒコとの戦い、熊野への迂回そして大和平定へと説話の場面は詳細に描かれるのだが、不思議なことにタギシミミはイナヒとミケイリヌ(ともに神武の兄であり、タギシミミの伯父たち)が海中や常世へ隠れたあとに「天皇、独りタギシミミ命と軍をひきいて・・・」と出てくるだけなのだ。 しかも大和平定後は、継母であるイスケヨリヒメに言い寄って犯そうとし、やがて継母の子であるカムヌナカワミミ皇子に殺されるというとんでもない人物として描かれてしまう。殺されるのは南九州生まれの「蛮族の血を引くミミ皇子」でも、殺す方の大和生まれの洗練された皇子(カムヌナカワミミ)ならば「ミミ」名は避けるというのが常道というものだろう。
神武紀によると、タギシミミは日向時代の神武天皇と日向の吾田のアイラツヒメとの間に生まれている。神武は45歳にして東征に出発した。このあと東征の航路、ナガスネヒコとの戦い、熊野への迂回そして大和平定へと説話の場面は詳細に描かれるのだが、不思議なことにタギシミミはイナヒとミケイリヌ(ともに神武の兄であり、タギシミミの伯父たち)が海中や常世へ隠れたあとに「天皇、独りタギシミミ命と軍をひきいて・・・」と出てくるだけなのだ。 しかも大和平定後は、継母であるイスケヨリヒメに言い寄って犯そうとし、やがて継母の子であるカムヌナカワミミ皇子に殺されるというとんでもない人物として描かれてしまう。殺されるのは南九州生まれの「蛮族の血を引くミミ皇子」でも、殺す方の大和生まれの洗練された皇子(カムヌナカワミミ)ならば「ミミ」名は避けるというのが常道というものだろう。
③ キスミミ (神武記のみ)
この人は古事記にしか登場しない。神武記には「(神武が)日向にいましし時、阿多の小橋の君の妹アイラヒメをめして生みませる子、タギシミミ命。次にキスミミ(岐須美美)命」と記す。キスミミはこの一度だけで、その後の動向は杳として知れない。一度しか出てこないような人物の 実在は疑わしいという見方があるが、それだと古事記に登場する人物群のおそらく半数は非実在の透明人間ということになろう。私は逆に一度でも出てきた以上、実在はしたとする。非実在とするのは、解釈が矛盾を抱えて行き詰ってからでもいいと思う。タギシミミは「タギシ(船舵)ミミ(王)」であったから、キスミミはまずは「キス・ミミ」で「キス王」と解ける。次にキスの解釈だが、倭語でキスというと魚の「きす(魚へんに喜ぶ)」くらいしか思い浮かばない。そこで捉え方を変え、キスのスを「ツ」の転訛と考えてみる。そうすると「キの王」となり、これだと「木の王」「紀の王」つまり 「紀の国の王」として通用しそうである。だが、紀伊国なら古事記では例外なく「木国」が、書紀では「紀または紀伊」が使われており「岐」は使われていない。 以上からキスミミ(岐須美美)とは、この古日向に実在した「岐=ふなど=要港」の王を指すのであろう。タギシミミの弟と紹介されながら、その後まったく登場しないのは、東征には参加せず、本貫の地つまり南九州投馬国の要港における海上交易の支配者としてそのまま留まったことを意味していると思われるのである。
この人は古事記にしか登場しない。神武記には「(神武が)日向にいましし時、阿多の小橋の君の妹アイラヒメをめして生みませる子、タギシミミ命。次にキスミミ(岐須美美)命」と記す。キスミミはこの一度だけで、その後の動向は杳として知れない。一度しか出てこないような人物の 実在は疑わしいという見方があるが、それだと古事記に登場する人物群のおそらく半数は非実在の透明人間ということになろう。私は逆に一度でも出てきた以上、実在はしたとする。非実在とするのは、解釈が矛盾を抱えて行き詰ってからでもいいと思う。タギシミミは「タギシ(船舵)ミミ(王)」であったから、キスミミはまずは「キス・ミミ」で「キス王」と解ける。次にキスの解釈だが、倭語でキスというと魚の「きす(魚へんに喜ぶ)」くらいしか思い浮かばない。そこで捉え方を変え、キスのスを「ツ」の転訛と考えてみる。そうすると「キの王」となり、これだと「木の王」「紀の王」つまり 「紀の国の王」として通用しそうである。だが、紀伊国なら古事記では例外なく「木国」が、書紀では「紀または紀伊」が使われており「岐」は使われていない。 以上からキスミミ(岐須美美)とは、この古日向に実在した「岐=ふなど=要港」の王を指すのであろう。タギシミミの弟と紹介されながら、その後まったく登場しないのは、東征には参加せず、本貫の地つまり南九州投馬国の要港における海上交易の支配者としてそのまま留まったことを意味していると思われるのである。
④ ミシマノミゾクイミミ (神武記・紀)
日本書紀の神武紀では「三嶋溝クイ(木へんに蕨)耳」、古事記では「三嶋ミゾ(さんずいに皇)咋」とミミを欠くが、ここでは書紀の方を取り上げる。三嶋は現在の大阪府摂津市から茨木市あたりを広く指す古地名で、茨木市にはこのミゾクイミミと娘のタマクシヒメ、それに神武妃となった孫のヒメタタライソスズヒメを祭る「溝咋神社」がある。ミゾクイはミゾ(溝)とクイ(咋)に分けられ、「溝(水路)を喰らう(掘る、浚う)」から「水路の工事をする」とい う意味を表している。古地名の三嶋は、淀川沿いの低湿地で、水位が高いため、水田を拓いていくためには 排水が肝要で、これをうまくやらないと湿害に悩まされ、良い田にはならない。三嶋ミゾクイとはそのような難 事業を手がけているこの地域の支配者であろう。この人物の娘タマクシヒメは非常に神がかり的な能力があったようで、事代主との聖婚の相手となり、ヒメ タタライソスズヒメ(注釈本は「五十鈴」を「イスズ」と読み、「十」を無視するが、私は「イソスズ」と読む。以下同じ)を生んでいる。このイソスズヒメは神武妃となってカムヤイミミ、カムヌナカワミミを生むことになる。
日本書紀の神武紀では「三嶋溝クイ(木へんに蕨)耳」、古事記では「三嶋ミゾ(さんずいに皇)咋」とミミを欠くが、ここでは書紀の方を取り上げる。三嶋は現在の大阪府摂津市から茨木市あたりを広く指す古地名で、茨木市にはこのミゾクイミミと娘のタマクシヒメ、それに神武妃となった孫のヒメタタライソスズヒメを祭る「溝咋神社」がある。ミゾクイはミゾ(溝)とクイ(咋)に分けられ、「溝(水路)を喰らう(掘る、浚う)」から「水路の工事をする」とい う意味を表している。古地名の三嶋は、淀川沿いの低湿地で、水位が高いため、水田を拓いていくためには 排水が肝要で、これをうまくやらないと湿害に悩まされ、良い田にはならない。三嶋ミゾクイとはそのような難 事業を手がけているこの地域の支配者であろう。この人物の娘タマクシヒメは非常に神がかり的な能力があったようで、事代主との聖婚の相手となり、ヒメ タタライソスズヒメ(注釈本は「五十鈴」を「イスズ」と読み、「十」を無視するが、私は「イソスズ」と読む。以下同じ)を生んでいる。このイソスズヒメは神武妃となってカムヤイミミ、カムヌナカワミミを生むことになる。
⑤カムヤイミミ (神武記・紀 綏靖紀)
ミシマノミゾクイミミの孫娘と神武天皇(タギシミミ)との間に生まれた長男がカムヤイミミである。次子はカムヌナカワミミで、タギシミミの後継者となり、第一大和王権の二代目になった。
ここで考えなければいけないのは、記紀の記述どおり幼名ワカミケヌであった神武天皇が現地大和で現地に近い三嶋出身の妃に生ませた子になぜ揃いもそろって「ミミ」名を付けたかということである。ふたりともいずれは大和王権の後継者になる可能性は高いのだから、父の幼名か、即位の地である大和地方にちなんだ名を付けそうなものだろう。ところがここで「神武=タギシミミ」という視点を導入してみると、たちどころに整合性を得るのだカムヤイミミは弟に比べるとやや惰弱だったようで、皇位を譲っている。その苗裔としては日本書紀に「多臣(おおのおみ)」だけを挙げるのみだが、古事記では他に十八姓を書き連ねている。その十八姓のうち4姓が九州島のもので、「火の君、大分の君、阿蘇の君、筑紫の三家連」が挙げられているが、筑紫三家連以外はすべて君姓の土着的豪族であり、九州島における「ミミ」系すなわち投馬国人の盛行の証しともなっている。
ミシマノミゾクイミミの孫娘と神武天皇(タギシミミ)との間に生まれた長男がカムヤイミミである。次子はカムヌナカワミミで、タギシミミの後継者となり、第一大和王権の二代目になった。
ここで考えなければいけないのは、記紀の記述どおり幼名ワカミケヌであった神武天皇が現地大和で現地に近い三嶋出身の妃に生ませた子になぜ揃いもそろって「ミミ」名を付けたかということである。ふたりともいずれは大和王権の後継者になる可能性は高いのだから、父の幼名か、即位の地である大和地方にちなんだ名を付けそうなものだろう。ところがここで「神武=タギシミミ」という視点を導入してみると、たちどころに整合性を得るのだカムヤイミミは弟に比べるとやや惰弱だったようで、皇位を譲っている。その苗裔としては日本書紀に「多臣(おおのおみ)」だけを挙げるのみだが、古事記では他に十八姓を書き連ねている。その十八姓のうち4姓が九州島のもので、「火の君、大分の君、阿蘇の君、筑紫の三家連」が挙げられているが、筑紫三家連以外はすべて君姓の土着的豪族であり、九州島における「ミミ」系すなわち投馬国人の盛行の証しともなっている。
⑥ カムヌナカワミミ (神武記・神武紀 綏靖記・綏靖紀 安寧紀)
神武ことタギシミミのあとを継いで、投馬国王統の第二代目についたのが、カムヌナカワミミである。書紀では、神武が日向に居るときに生まれたタギシミミという腹違いの兄を「久しく朝機(まつりごと)を歴たり」(綏靖紀)と記して王位に就いたことをほのめかしながら、「禍心(まがごころ)」があるという理由で弟のカムヌナカワミミに射殺されるというストーリーが展開されるのだが、腹違いにせよ兄殺しである。聖王であるべきはずの大和王権の最高指導者がこともあろうに「王位継承権」のある兄を葬って後継者となる。極めて不名誉な継承をしたことになってしまった。ここらあたりは編纂の時点で書き改めてもよさそうなものである。それをしなかった理由として挙げられるのは「化外の地・蛮族隼人の南九州からやって来たタギシミミを早く葬り去ること」だろう。そのために仕組んだのが「内紛」による殺人事件だったのだ。こうすれば他の氏族の記録に載ることなくタギシミミ王権を捨て去ったと示すことが可能になる。当時の編纂者側はそのように粉飾することで、第一次大和王権の出自は南九州であったが、東征の当事者自身が不徳であった、すなわち南九州的な野生に近いような王であったため葬り去られた、という事を強調し、大和では南九州の残滓は断ち切られたのだということを示そうとしたのだろう。しかし、それでも「初代の王は南九州からやって来た」といっていること何ら変わりはない。
神武ことタギシミミのあとを継いで、投馬国王統の第二代目についたのが、カムヌナカワミミである。書紀では、神武が日向に居るときに生まれたタギシミミという腹違いの兄を「久しく朝機(まつりごと)を歴たり」(綏靖紀)と記して王位に就いたことをほのめかしながら、「禍心(まがごころ)」があるという理由で弟のカムヌナカワミミに射殺されるというストーリーが展開されるのだが、腹違いにせよ兄殺しである。聖王であるべきはずの大和王権の最高指導者がこともあろうに「王位継承権」のある兄を葬って後継者となる。極めて不名誉な継承をしたことになってしまった。ここらあたりは編纂の時点で書き改めてもよさそうなものである。それをしなかった理由として挙げられるのは「化外の地・蛮族隼人の南九州からやって来たタギシミミを早く葬り去ること」だろう。そのために仕組んだのが「内紛」による殺人事件だったのだ。こうすれば他の氏族の記録に載ることなくタギシミミ王権を捨て去ったと示すことが可能になる。当時の編纂者側はそのように粉飾することで、第一次大和王権の出自は南九州であったが、東征の当事者自身が不徳であった、すなわち南九州的な野生に近いような王であったため葬り去られた、という事を強調し、大和では南九州の残滓は断ち切られたのだということを示そうとしたのだろう。しかし、それでも「初代の王は南九州からやって来た」といっていること何ら変わりはない。
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