非常に優秀なサイト記事ゆえに筆者のへたな表現を使うよりも、これをそのまま転載する。ぜひ、別ウインドウでこのサイトの高地性集落の弥生各期における分布図をあけておいていただきたい。
「●主に弥生時代に高台に設けられた集落を高地性集落と呼ぶ。
高地性集落は低地を見下ろし、また、近辺の高地性集落の見える位置に作られていることが多い。
したがって、眼下の情勢を見張るだけでなく、連絡にも便利なようにできている。
高地性集落にはその最高地点に焼け土の跡が発見されているが、これはノロシ台であると考えられている。
高地性集落は低地を見下ろし、また、近辺の高地性集落の見える位置に作られていることが多い。
したがって、眼下の情勢を見張るだけでなく、連絡にも便利なようにできている。
高地性集落にはその最高地点に焼け土の跡が発見されているが、これはノロシ台であると考えられている。
●瀬戸内海沿岸地域の高地性集落を使って北九州から大阪平野までノロシを使った実験をした結果、わずか数時間で伝達できることが判明した。
このように、高地性集落は情報伝達基地のような役目を担っていたものと思われている。
場所によっては集落内に炉と思われるようなものが確認でき、中で武器の製造を行っていたとも考えられている。
このように、高地性集落は情報伝達基地のような役目を担っていたものと思われている。
場所によっては集落内に炉と思われるようなものが確認でき、中で武器の製造を行っていたとも考えられている。
●また高地性集落は機能的には、防衛主体の集落と農耕主体の集落、さらにそれぞれを複合的に組み合わせた集落に区別できる。
下の分布図は、主に防衛的機能の高地性集落の分布変化である。
下の分布図は、主に防衛的機能の高地性集落の分布変化である。
●防衛的高地性集落の変遷は倭国の軍事的緊張との関連で興味深い。
弥生中期にあたる第Ⅲ期から防衛的な高地性集落が多くなり、第Ⅳ期においては北九州を起源地とする中細形銅剣と銅戈、次の時代の平形銅剣や銅戈の分布地域(銅剣・銅戈・銅矛参照)と不可分な関係にあること、さらに第Ⅴ期においては前後二回その出現期があるが、周防から安芸にかけての地域と、大阪湾岸から紀伊水道の東岸にかけての地に多く出現しており、動乱の発生地域が瀬戸内から畿内を経て紀伊水道の東岸の地域に局限されていたことをあらわしている。
特に、周防から安芸にかけては、私の説で女王国の東にある倭種の国々であり、この時期に何らかの争いがこの地域で展開されていたと言えよう。
弥生中期にあたる第Ⅲ期から防衛的な高地性集落が多くなり、第Ⅳ期においては北九州を起源地とする中細形銅剣と銅戈、次の時代の平形銅剣や銅戈の分布地域(銅剣・銅戈・銅矛参照)と不可分な関係にあること、さらに第Ⅴ期においては前後二回その出現期があるが、周防から安芸にかけての地域と、大阪湾岸から紀伊水道の東岸にかけての地に多く出現しており、動乱の発生地域が瀬戸内から畿内を経て紀伊水道の東岸の地域に局限されていたことをあらわしている。
特に、周防から安芸にかけては、私の説で女王国の東にある倭種の国々であり、この時期に何らかの争いがこの地域で展開されていたと言えよう。
●研究者によっては、この第Ⅴ期の前半の出現期を3世紀中葉の狗奴国との争乱や卑弥呼没後の男王時代の内乱にあて、第Ⅴ期終末期の出現を3世紀末のいわゆる欠史時代に比定するものや、前半の出現期を2世紀後半に位置づけて倭国大乱とし、終末の出現期が3世紀前半の狗奴国の乱に比定しようとするものがある。
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1ノロシの伝達速度は非常に速いこと
2高地性集落が次第に九州からなくなって、東へ集中してゆくこと
3その変遷は「倭国の軍事的緊張との関連」したと見られること
4農耕設備、簡易な製鉄炉などを複合的に持つこと(長期的、軍事的集落)
2高地性集落が次第に九州からなくなって、東へ集中してゆくこと
3その変遷は「倭国の軍事的緊張との関連」したと見られること
4農耕設備、簡易な製鉄炉などを複合的に持つこと(長期的、軍事的集落)
■最重要ポイント
「弥生中期にあたる第Ⅲ期から防衛的な高地性集落が多くなり、第Ⅳ期においては北九州を起源地とする中細形銅剣と銅戈、次の時代の平形銅剣や銅戈の分布地域(銅剣・銅戈・銅矛参照)と不可分な関係にあること、さらに第Ⅴ期においては前後二回その出現期があるが、周防から安芸にかけての地域と、大阪湾岸から紀伊水道の東岸にかけての地に多く出現しており、動乱の発生地域が瀬戸内から畿内を経て紀伊水道の東岸の地域に局限されていたことをあらわしている。」
「弥生中期にあたる第Ⅲ期から防衛的な高地性集落が多くなり、第Ⅳ期においては北九州を起源地とする中細形銅剣と銅戈、次の時代の平形銅剣や銅戈の分布地域(銅剣・銅戈・銅矛参照)と不可分な関係にあること、さらに第Ⅴ期においては前後二回その出現期があるが、周防から安芸にかけての地域と、大阪湾岸から紀伊水道の東岸にかけての地に多く出現しており、動乱の発生地域が瀬戸内から畿内を経て紀伊水道の東岸の地域に局限されていたことをあらわしている。」
弥生中期第Ⅲ期~第Ⅴ期とは2~3世紀後半に当たる。
すなわち魏志倭人伝が書いた「代々争いが絶えず」「倭国大乱」の時期なのであり、さらに第Ⅴ期に二回に分けて高地性集落形成のブームが来ていることは、魏志の卑弥呼死したあと、再び国乱れ、宗女トヨ?を立てるとまたおさまった。あるいはその後の再び争乱化したと思われる男王時代に当たると考えてよいだろう。
すなわち魏志倭人伝が書いた「代々争いが絶えず」「倭国大乱」の時期なのであり、さらに第Ⅴ期に二回に分けて高地性集落形成のブームが来ていることは、魏志の卑弥呼死したあと、再び国乱れ、宗女トヨ?を立てるとまたおさまった。あるいはその後の再び争乱化したと思われる男王時代に当たると考えてよいだろう。
●瀬戸内海の海岸線の高台に集中する高地性集落の役割は、あきらかに瀬戸内の監視である。現在、瀬戸内には海上保安庁の監視台が山口県に設置されており、関門海峡を通り抜けようとする不明船があれば、即座に有事と認識されることとなる。古代から瀬戸内は海上の要なのだ。
その要としての関は必ずいくつかの海峡に設けられた。
地図を見れば海峡は
1下関の関門海峡
2豊後水道=豊予海峡
3芸予海峡・しまなみ海道
4牛窓と香川の間の備後灘
5鳴門海峡・友ヶ島水道の二箇所
である。
その要としての関は必ずいくつかの海峡に設けられた。
地図を見れば海峡は
1下関の関門海峡
2豊後水道=豊予海峡
3芸予海峡・しまなみ海道
4牛窓と香川の間の備後灘
5鳴門海峡・友ヶ島水道の二箇所
である。
関門海峡は古代には「穴門の海」である。ここの九州側の門司(もじ)港は古代には対岸の下関がある穴門国の管轄に含まれていた。門司は当時豊前国であるはずだが、監視を一括化するためにここだけは穴門が管理した。それだけここが最重要な畿内への入り口だからだ。
豊予海峡と備後灘には記紀に、海人的な水先案内人である「珍彦=椎根津彦」がいて、これがやがて倭直(やまとのあたい)、倭国造の祖神となるのである。
しまなみ海道には水軍がいた。
鳴門海峡は別名「うずしお」で容易には入り込めない。
このすべての海峡は狭く、潮目が早く、明治になって汽船ができるまでなかなか通行が難しい難所である。どうしても船舶は速度を落とさざるを得ない。だから監視するには絶好の場所。
これだけ難関の多い瀬戸内は、今、われわれが関西汽船でらくらく往来してように見えるが、天候に関わらず非常に航行には経験が必要である。つまりこの瀬戸内海という「高速道路」には厳重な検問が幾重にも存在した。高地性集落はようするに検問と監視台がずらりと並んでいたということだ。それほどの組織と連携があるということは、少なくとも2世紀後半には畿内にそれを管理できる組織ができている必要があるだろう。これが海外の船の侵入監視のために造られたか、あるいは狗奴国の侵入を防ぐためにか、そこが問題になる。
時期を移して次第に東へ集中する高地性集落の分布の流れからそれは判別することになろう。
いずれにせよ瀬戸内の特に吉備から東の分厚い高地性集落増加からは、大陸の三世紀後半の脅威が現実化していくことを感じさせ、この瀬戸内連合体がいかに大陸、半島、太平洋側そして日本海側勢力の侵入侵犯に対して団結せざるを得なかったかの証明となるだろう。
玄界灘沿岸から高地性集落が薄くなっていく流れからは
1北部九州倭人勢力の東への移動
2それによって南朝・南九州という極めて古い時代からの連盟が北上し
3瀬戸内連合は対抗策として北朝へ朝貢せねば危うくなった
のではないか?との推論が立てられるのではないかと感じる。
玄界灘沿岸から高地性集落が薄くなっていく流れからは
1北部九州倭人勢力の東への移動
2それによって南朝・南九州という極めて古い時代からの連盟が北上し
3瀬戸内連合は対抗策として北朝へ朝貢せねば危うくなった
のではないか?との推論が立てられるのではないかと感じる。
結果として女王国は筑紫狗奴国との和睦を選んだ。
その便宜的和睦が筑紫全体のゆるい連合体制はうまくいかなくなり、南朝が衰退して後の6世紀に満を持したように磐井の乱が起きると、それを利してヤマトは一気にこれを帰順させた。しかし旧狗奴国勢力は太平洋側、日本海側の方墳地域との古い強い融和もあって、完全には消し去ることができなかった。それが磐井の子・葛子を国造家として残した理由かと思う。
ヤマトは出雲・古志を中心とする日本海側だけは取ることに成功したが、太平洋側には雄族・尾張氏と関東蝦夷の強い連合体があったためにこれとは融和せざるを得なかったのではないか?
その便宜的和睦が筑紫全体のゆるい連合体制はうまくいかなくなり、南朝が衰退して後の6世紀に満を持したように磐井の乱が起きると、それを利してヤマトは一気にこれを帰順させた。しかし旧狗奴国勢力は太平洋側、日本海側の方墳地域との古い強い融和もあって、完全には消し去ることができなかった。それが磐井の子・葛子を国造家として残した理由かと思う。
ヤマトは出雲・古志を中心とする日本海側だけは取ることに成功したが、太平洋側には雄族・尾張氏と関東蝦夷の強い連合体があったためにこれとは融和せざるを得なかったのではないか?
筑紫はその後、歴史のメインから遠ざかり、対外緊張の時だけの武力と、那ノ津の港機能、大宰府の迎賓機能だけが時折クローズアップされるようになる。しかし中国はかつての奴国が倭国だとしばらくの間思い込んでいたようである。そこでヤマトは国名を日本へ変更しようとしたのだろう。こうしたことから見ても、磐井の乱がいかに日本の将来を決めたかが見えてくる。この乱は壬申の乱、応仁の乱、関が原の戦いなどよりも国際的な、東アジアにおける「日本国誕生」の画期となる大事件として教科書はもっとクローズアップするべきであろう。
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