■橘諸兄 たちばなの・もろえ
美努王(みののおおきみ/三野王)の子。敏達天皇から五世(または六世)の裔。初め葛城王と称した。
母;県犬養橘宿禰三千代
光明皇后は異父妹。
同母弟に橘佐為、同母妹に牟漏女王。
藤原不比等の子多比能を妻とし、奈良麻呂をもうけたとある(公卿補任・尊卑分脉)
日本三筆・橘逸勢(はやなり)は曾孫。
母;県犬養橘宿禰三千代
光明皇后は異父妹。
同母弟に橘佐為、同母妹に牟漏女王。
藤原不比等の子多比能を妻とし、奈良麻呂をもうけたとある(公卿補任・尊卑分脉)
日本三筆・橘逸勢(はやなり)は曾孫。
※三野とはのちの美濃国。
710(和銅3)年、従五位下。翌年、馬寮監。
729(神亀6)年、正四位下に進み、同年左大弁。
731(天平3)年、参議。翌年、従三位。
天平8年、弟の佐為王と共に母の橘宿禰姓を継ぐことを請い、許される。これに伴い、葛城王から橘宿禰諸兄と改名する。
天平9年7.25、藤原武智麻呂邸に派遣され、病床の武智麻呂に正一位左大臣を授ける役を負う。藤原四卿没後、大納言に昇進。
翌年、阿倍内親王の立太子と同時に右大臣に就任し、以後政界を主導、唐から帰国した玄(げんぼう)・下道真備らをブレーンとして、疫病流行後の国政の立て直しを図る。
739(天平11)年1.13、従二位。
翌天平12年5月、聖武天皇を相楽別業(京都府綴喜郡井手町)に迎える。同年9月、藤原広嗣の乱が勃発し、関東行幸がなされたのを機に、恭仁京遷都を推進。11月、正二位。12月6日、不破仮宮より先発して恭仁郷へ新京整備に向かう。同月13日、恭仁遷都を実現。
743(天平15)年5月、従一位左大臣。同年7.26、紫香楽宮行幸の際、留守官として恭仁京に留まる。
天平16年閏1.11、難波宮行幸に従駕。2.24、聖武天皇は難波から再び紫香楽宮行幸に出発し、諸兄は元正上皇と共に難波に留まる。2.26、難波宮を皇都とする勅を伝える。同年秋か冬、元正上皇と難波宮で宴、上皇は諸兄に讃歌を贈り信頼を表明する(18/4057・4058)。
翌天平17年正月には紫香楽遷都がなされるが、災異が続発し、5月、聖武天皇は平城に還都、結局諸兄の遷都(脱平城京)計画は失敗に帰した。以後、次第に実権を藤原仲麻呂に奪われる。
天平18年1月、元正上皇の御在所で雪掃の肆宴、応詔歌を奉る(17/3922)。同年4.5、大宰帥を兼ねる。
748(天平20)年3月、越中守大伴家持のもとへ田辺福麻呂を派遣する。
749(天平感宝1)年4.14、東大寺行幸に際し正一位。同年12.27、宇佐八幡禰宜尼大神杜女の東大寺参拝に際し、詔を八幡神に伝読、辰年(天平12年か)河内大知識寺の盧舎那仏礼拝をきっかけとする大仏造立発願の経緯を説明する。
翌勝宝2年1.16、朝臣を賜姓される。宿禰から朝臣への改姓の初見。
勝宝4年4.9、東大寺大仏開眼供養会において女漢躍歌(おんなあやおどりうた)の鼓の座に加わる。同年11.8、自邸(井手の別業か)に聖武上皇を招き豊楽。右大弁藤原八束・少納言大伴家持らも参席(19/4269~4272)。同年11.27、林王宅に但馬按察使橘奈良麻呂を餞する宴に出席。この時の治部卿船王・少納言家持らの歌が残る(19/4279~4281)。
翌天平勝宝5年2月、「左大臣橘卿(諸兄)之東家」で諸卿大夫が宴を催し古歌について論ず(『袖中抄』『人麿勘文』などが伝える「万葉五巻抄」序の記事)。同年2.19、自邸で宴、家持「柳条を見る歌」を詠む(19/4289)。
754(天平勝宝6)年7.19、太皇太后宮子崩御に際し御装束司。
天平勝宝7年11.28、兵部卿橘奈良麻呂宅で宴を主催、自ら歌を詠む(20/4454)。同年11月、飲酒の席での上皇誹謗の言辞を側近の佐味宮守に密告される。上皇はこれを不問に付すが、翌年2.2、この責を負って官界を引退。
757(天平勝宝9)年1月、薨去(74歳)。万葉には7首、06/1025、17/3922、18/4056、19/4270、20/4447・4448・4454。『栄華物語』を始め、古くから万葉集の撰者に擬せられた。
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/moroe.html
729(神亀6)年、正四位下に進み、同年左大弁。
731(天平3)年、参議。翌年、従三位。
天平8年、弟の佐為王と共に母の橘宿禰姓を継ぐことを請い、許される。これに伴い、葛城王から橘宿禰諸兄と改名する。
天平9年7.25、藤原武智麻呂邸に派遣され、病床の武智麻呂に正一位左大臣を授ける役を負う。藤原四卿没後、大納言に昇進。
翌年、阿倍内親王の立太子と同時に右大臣に就任し、以後政界を主導、唐から帰国した玄(げんぼう)・下道真備らをブレーンとして、疫病流行後の国政の立て直しを図る。
739(天平11)年1.13、従二位。
翌天平12年5月、聖武天皇を相楽別業(京都府綴喜郡井手町)に迎える。同年9月、藤原広嗣の乱が勃発し、関東行幸がなされたのを機に、恭仁京遷都を推進。11月、正二位。12月6日、不破仮宮より先発して恭仁郷へ新京整備に向かう。同月13日、恭仁遷都を実現。
743(天平15)年5月、従一位左大臣。同年7.26、紫香楽宮行幸の際、留守官として恭仁京に留まる。
天平16年閏1.11、難波宮行幸に従駕。2.24、聖武天皇は難波から再び紫香楽宮行幸に出発し、諸兄は元正上皇と共に難波に留まる。2.26、難波宮を皇都とする勅を伝える。同年秋か冬、元正上皇と難波宮で宴、上皇は諸兄に讃歌を贈り信頼を表明する(18/4057・4058)。
翌天平17年正月には紫香楽遷都がなされるが、災異が続発し、5月、聖武天皇は平城に還都、結局諸兄の遷都(脱平城京)計画は失敗に帰した。以後、次第に実権を藤原仲麻呂に奪われる。
天平18年1月、元正上皇の御在所で雪掃の肆宴、応詔歌を奉る(17/3922)。同年4.5、大宰帥を兼ねる。
748(天平20)年3月、越中守大伴家持のもとへ田辺福麻呂を派遣する。
749(天平感宝1)年4.14、東大寺行幸に際し正一位。同年12.27、宇佐八幡禰宜尼大神杜女の東大寺参拝に際し、詔を八幡神に伝読、辰年(天平12年か)河内大知識寺の盧舎那仏礼拝をきっかけとする大仏造立発願の経緯を説明する。
翌勝宝2年1.16、朝臣を賜姓される。宿禰から朝臣への改姓の初見。
勝宝4年4.9、東大寺大仏開眼供養会において女漢躍歌(おんなあやおどりうた)の鼓の座に加わる。同年11.8、自邸(井手の別業か)に聖武上皇を招き豊楽。右大弁藤原八束・少納言大伴家持らも参席(19/4269~4272)。同年11.27、林王宅に但馬按察使橘奈良麻呂を餞する宴に出席。この時の治部卿船王・少納言家持らの歌が残る(19/4279~4281)。
翌天平勝宝5年2月、「左大臣橘卿(諸兄)之東家」で諸卿大夫が宴を催し古歌について論ず(『袖中抄』『人麿勘文』などが伝える「万葉五巻抄」序の記事)。同年2.19、自邸で宴、家持「柳条を見る歌」を詠む(19/4289)。
754(天平勝宝6)年7.19、太皇太后宮子崩御に際し御装束司。
天平勝宝7年11.28、兵部卿橘奈良麻呂宅で宴を主催、自ら歌を詠む(20/4454)。同年11月、飲酒の席での上皇誹謗の言辞を側近の佐味宮守に密告される。上皇はこれを不問に付すが、翌年2.2、この責を負って官界を引退。
757(天平勝宝9)年1月、薨去(74歳)。万葉には7首、06/1025、17/3922、18/4056、19/4270、20/4447・4448・4454。『栄華物語』を始め、古くから万葉集の撰者に擬せられた。
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→橘諸兄の乱・橘奈良麻呂の乱
橘諸兄(たちばなのもろえ)は、元の名前を葛城王(葛木王・かつらぎのおう/おおきみ・皇族)と称し、敏達大王(びたつおおきみ/天皇)の後裔で大宰帥・美努王(みぬのおう/皇族)の子であった。
その葛城王(葛木王・かつらぎのおう/おおきみ・皇族)が、弟の佐為王(さいのおう)と共に母・橘三千代の姓氏である橘宿禰(たちばなのすくね・宿禰は八色の姓で制定された姓(かばね)の一つ)を継ぐ事を願い許可され、それ以後は橘諸兄(たちばなのもろえ)と名乗る。
初代橘長者(たちばなのちょうじゃ)と成った橘諸兄(たちばなのもろえ)に権力を握る出来事が起こった。
七百三十七年(天平九年)疫病(天然痘)の流行によって藤原四兄弟が相次いで亡くなり、続いて舎人親王(とねりのしんのう)を初めとして多くの政府高官が死亡して議政官がほぼ全滅し、出仕出来る公卿は従三位左大弁の諸兄(もろえ)と従三位大蔵卿・鈴鹿王(すずかのおう・皇族)のみとなった。
そこで政権体制を整える為、急遽この年に諸兄(もろえ)を次期大臣の資格を有する大納言に、鈴鹿王(すずかのおう・皇族)を知太政官事(太政大臣と同格で皇族である事のみが任用条件)に任命する。
翌年には、橘諸兄(たちばなのもろえ)は正三位右大臣に任命されて一躍朝廷の中心的地位に出世する事になり、これ以降の国政は事実上橘諸兄(たちばなのもろえ)が担当し、聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)を補佐する事になる。
しかし聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)が阿倍内親王に譲位して孝謙大王(こうけんおおきみ/天皇・女帝)の時代に入ると、光明皇后の後ろ盾で藤原仲麻呂(恵美押勝)の発言力が増して圧力が増して行く。
その葛城王(葛木王・かつらぎのおう/おおきみ・皇族)が、弟の佐為王(さいのおう)と共に母・橘三千代の姓氏である橘宿禰(たちばなのすくね・宿禰は八色の姓で制定された姓(かばね)の一つ)を継ぐ事を願い許可され、それ以後は橘諸兄(たちばなのもろえ)と名乗る。
初代橘長者(たちばなのちょうじゃ)と成った橘諸兄(たちばなのもろえ)に権力を握る出来事が起こった。
七百三十七年(天平九年)疫病(天然痘)の流行によって藤原四兄弟が相次いで亡くなり、続いて舎人親王(とねりのしんのう)を初めとして多くの政府高官が死亡して議政官がほぼ全滅し、出仕出来る公卿は従三位左大弁の諸兄(もろえ)と従三位大蔵卿・鈴鹿王(すずかのおう・皇族)のみとなった。
そこで政権体制を整える為、急遽この年に諸兄(もろえ)を次期大臣の資格を有する大納言に、鈴鹿王(すずかのおう・皇族)を知太政官事(太政大臣と同格で皇族である事のみが任用条件)に任命する。
翌年には、橘諸兄(たちばなのもろえ)は正三位右大臣に任命されて一躍朝廷の中心的地位に出世する事になり、これ以降の国政は事実上橘諸兄(たちばなのもろえ)が担当し、聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)を補佐する事になる。
しかし聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)が阿倍内親王に譲位して孝謙大王(こうけんおおきみ/天皇・女帝)の時代に入ると、光明皇后の後ろ盾で藤原仲麻呂(恵美押勝)の発言力が増して圧力が増して行く。
三年前に従五位下に進んでいた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、また皇太子阿倍内親王ともこの時は良好な関係にあったとされ、藤原四兄弟が相次いで死去した四年後の七百四十一年に民部卿、更にその二年後には参議にと順調に昇任している。
七百四十九年(天平勝宝元年)聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)が譲位して阿倍内親王が孝謙大王(こうけんおおきみ/天皇・女帝)として即位すると、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は大納言に昇進する。
次いで、光明皇后の為に設けられた紫微中台の令(長官)を兼ね、更に中務卿と中衛大将も兼ねるなど叔母・光明皇后と従兄妹・孝謙大王(こうけんおおきみ/天皇・女帝)の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)と権勢を競うようになった。
お定まりの権力争いだが、この権力争いは七百五十六年(天平勝宝八年)に成ると、七百五十五年(天平勝宝七年)に「諸兄(もろえ)が朝廷を誹謗した」との密告があった。
諸兄(もろえ)は聖武上皇(しょうむじょうこう)の病気に際して「酒の席で不敬の言があった」と讒言され、橘諸兄(たちばなのもろえ)は辞職を申し出て以後隠居し、翌年には失意のうちに死去し争いは決着した。
http://mblog.excite.co.jp/user/jiyodan/entry/detail/?id=13085297
七百四十九年(天平勝宝元年)聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)が譲位して阿倍内親王が孝謙大王(こうけんおおきみ/天皇・女帝)として即位すると、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は大納言に昇進する。
次いで、光明皇后の為に設けられた紫微中台の令(長官)を兼ね、更に中務卿と中衛大将も兼ねるなど叔母・光明皇后と従兄妹・孝謙大王(こうけんおおきみ/天皇・女帝)の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)と権勢を競うようになった。
お定まりの権力争いだが、この権力争いは七百五十六年(天平勝宝八年)に成ると、七百五十五年(天平勝宝七年)に「諸兄(もろえ)が朝廷を誹謗した」との密告があった。
諸兄(もろえ)は聖武上皇(しょうむじょうこう)の病気に際して「酒の席で不敬の言があった」と讒言され、橘諸兄(たちばなのもろえ)は辞職を申し出て以後隠居し、翌年には失意のうちに死去し争いは決着した。
http://mblog.excite.co.jp/user/jiyodan/entry/detail/?id=13085297
※ようするに大仏開眼までのすべての始まりは藤原四家の専横という政権欲望から始まって、画期は長屋王の冤罪がネックにある。
ポイント美濃と葛城
ちなみに・・・
諸兄は父の三野王が大宰府に赴任している間に生まれた。
母・三千代はその後三野王が死去すると、藤原不比等と再婚。
ところが実は三野王生前から三千代と藤原不比等の不倫関係は存在していた。
ま、ようするに橘諸兄も不比等のはらからだったようである。
となると、宮中ではそれはみな既知の事実で、三野王自殺説も考えられることとなる。
三野王も諸兄も馬に関わる仕事をしており、特に三野王には愛馬が涙を流すという不思議な悲しみを歌った和歌が万葉集に記録がある。
諸兄は父の三野王が大宰府に赴任している間に生まれた。
母・三千代はその後三野王が死去すると、藤原不比等と再婚。
ところが実は三野王生前から三千代と藤原不比等の不倫関係は存在していた。
ま、ようするに橘諸兄も不比等のはらからだったようである。
となると、宮中ではそれはみな既知の事実で、三野王自殺説も考えられることとなる。
三野王も諸兄も馬に関わる仕事をしており、特に三野王には愛馬が涙を流すという不思議な悲しみを歌った和歌が万葉集に記録がある。
百小竹(ももしの)の 三野の王(おほきみ)
西の馬屋 立てて飼ふ駒
東(ひむがし)の馬屋 立てて飼ふ駒
西の馬屋 立てて飼ふ駒
東(ひむがし)の馬屋 立てて飼ふ駒
草こそば 取りて飼へ 水こそば 汲みて飼へ
何しかも 葦毛(あしげ)の馬の いばえ立てつる
巻13-3327 作者未詳
衣手(ころもで) 葦毛の馬の いばゆ声
心あれかも 常ゆ 異(け)に鳴く
何しかも 葦毛(あしげ)の馬の いばえ立てつる
巻13-3327 作者未詳
衣手(ころもで) 葦毛の馬の いばゆ声
心あれかも 常ゆ 異(け)に鳴く
三野王は自分でも藤原に間男されていることを知っていて、見てみぬ振りをしておくしかない立場だったと考えれば、諸兄のその後の活動はうなづめるところが多々あるわけ。
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コメント
コメント一覧 (3)
kawakatu
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「馬が鳴く」詩は実は三野王がみまかったときの出来事を詩にしたものです。やはり三野王の苦しみは厩番でさえ知っていたのかと思うと、なおのことあわれが募ります。
kawakatu
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kawakatu
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