「おい、これいくらになる?」
百姓秀治と喜平はミズノミであったが、食えないご時世ゆえに仕方なく古墳の盗掘を得意にした。
いつものように奴の津界隈をうろついていたが、ふらふらと志賀島まで舟で渡ってしまったのだ。
「なにしろ黒田の殿様のところの儒学者さまが金印っちゅうもんが大昔に筑前にあった国に中国から贈られてまだ見つかってねえっちいうとらした。それで行ってみたら、どうも叶の浜が怪しい。あそこの地主持ちの甚兵衛さんには内緒で掘り繰り返してみたら、こいつが箱の中に入っていたんじゃ」


天明4年2月23日(1784年4月12日)、筑前国那珂郡志賀島村(現福岡県福岡市東区志賀島)南端・叶ノ浜の「叶崎」で出土。発見したのは甚兵衛という地元の百姓である。ただし近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説も有力である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0

「なに?そいつはいけねえ。ここを見ろや、「王」っち書いちょるばい。こりゃあ相当にひとに知られた大昔のお宝じゃ。このおれでも聞いたことがあるから、こんなもんは世間じゃ売り買いできたもんじゃねえぞ。お断りじゃ」

筑前では「金印」「奴国」の話は誰もが知っている話しだった。
ふたりは困ってしまった。これでは金には変えられない。
「返しにいくべ」
「そうさなあ、金にもならねえうえに、村の衆に盗んだこと、売りさばいたことを知られたら村に住めなくなる・・・」
ふたりはそっとそれを志賀島に返しに行った。
ところが運悪くそれを浜の主である甚兵衛に見られてしまう。

「こりゃ!おめえちはなんばしよっとか?」

かくかくしかじか。

「なんと!まさしく金ぴかじゃな、これは。・・・・う~~んどうしたもんか・・・。とりあえず御領主さまにお知らせせねばのう。」

てなわけで金印は黒田の殿様の手に。
「おお、ようやく見つけてくれたか。これが出るのをまっておったのじゃ。これ、このものどもに褒美をとらせよ」

どうやら金印を隠したのはもともと黒田の如水さまだったようだ。

「これ、儒者を呼べ」

「南冥これに参りましてございます」
「おお、出たぞ出たぞ」
「おお、やっとあの二人やりおりましたか。かねてよりそれとなく、志賀島に金がある旨教え諭しており申したのが今頃」
「早速、都に知らせようぞ」
「さようでございますな、さすればヤマトの国学者たちももうぐうの音も出ますまい」
「うむ、あのいまいましい国学ずれどもに一あわ吹かせてやろう。せっかく金印が筑紫の浜にあるはずだと知らせてやったものを、筑紫の田舎侍、学者とののしりおったそうじゃから、いい薬になるわ」

「いかがでしょう、このさい、例の一緒に造らせた女王の金印もあった言うのは・・・」
「それはならん、卑弥呼の金印は我が家の家宝である。決して世の中に出してはならん」
「それはおやかた様の背後にうごめくかの渡来の技術者たちの頭領が物言いのせいでは?」
「黙れ!それを口にしてはならん。石工たちの頭領と金印はなんの関係もないのじゃ」

「へへえ~~~!恐れ入り奉る」


「闇の頭目よ、奴国王金印は報告しておいたが、卑弥呼の金印をいかがいたそう?このまま拙者が持っておっていいものか」
「ではわが結社に貸与くだされば永遠に謎となりましょう。ただとは申しませぬ、金千両で借り受けたことにすればいかが?」

こうして親魏倭王金印は秦氏闇の首領の手に。
これを首領は天皇家へ持ち込み、金一万両に。


かくして天皇家の神器は今や金印となった。
ゆえにこれまでの三種の神器などは宮内では見向きもされなくなったんだと・さ・。
お・し・ま・い。



もっともっと遠い昔の中国でのお話。

「おい、チンジュよ、魏書に倭国に金印紫綬なんて書いてしまって、いいのか?」
「ま、いいんじゃない?どうせ誰も知らないし、永遠に見つかりっこないんだから」
「ということは前漢書(⇒訂正、後漢書の間違い)と同じことをしたってことかな?」
「そうそう」
「てことは、倭人たちは永遠に二つの金印を探すことにならんか?」
「面白いあるやろ?」
「面白いあるな」
「夢があっていいじゃん、あの生真面目で前向きな白水郎たちが血眼で捜し続けるなんて。まあ、しかしよく探しても百年も経てばあきらめるじゃろよ」

ところが倭人の欲望と推理欲は中国人ほどあきらめやすくはできていなかった。
今もまだスコップ持って探し続ける子孫たちが存在する。探すたびに出たものを盗掘・転売。
これを買い受けたのが先の筑紫の秦頭領。そして転売先が米国のフリーメイソン。
これが全部アメリカの対外戦争の費用になって、ビン・ラディン一家や石油王たちの毎日の莫大な飲み代になっている・・・なんてことは言わないほうがいいよ。

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『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬


「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」



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