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最初に申しておかねばならないが、この記事は推理推測に過ぎない。Kawakatu


考古学の発達によってさまざまの驚愕する遺物と事実が明らかになりつつある昨今、なぜ卑弥呼のもらった「親魏倭王」金印は出てこないのだろうか?またそれとともに難升米や(都市)牛利がもらったはずの複数の銀印さえも出てこないのも不思議ではあるまいか?

筆者は難升米の墓として、時代は下がるだろうが奈良の黒塚古墳がもっとも、彼の子孫の墓としてふさわしいように思っている。それは魏書の「黄幢(こうどう)」の推定形状から出ている。(黒塚古墳U字型鉄製品と倭人伝の「黄幢」 →http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53170552.html)
ただし黄幢などはいくつでも作れただろうから決定打だとは決められないのであるが。

金印一個だけならなくなったとしてもおかしくもないが、複数個あるはずの銀印までも出てこないとは不可思議ではないか?

まず誰もが「横流し」「盗掘」が思い浮かぶことだろう。

漢委奴国王の金印でさえ、偽物問題で喧々諤々とした。
出てきたとしても、まずはそれ以上の難問を提示するだけである。
しかも明治時代には官憲による仁徳陵の身勝手な「盗掘」行為が起きているのは有名な話。
となるととっくに盗掘にあって、どこかヤミルートに流れたと思ってしまうのもむべなるかな。

もしかするとこの金高騰のどさくさで、どこかからか出てこないものかと期待しているのだが?

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考古学で2000年近くも以前の金や銀の加工品がちゃんと出てくること事態が、実は稀有なことなのである。驚愕するべきことなのだと、鈴木勉らは書いているのであるから、おおよそ検討はつく。
高価な貴重品がおいそれと残されていること自体、ありえない話しなのであろう。
だからこそ奴国の金印も辺鄙な海岸にそっと隠されていたのかも知れまい。

卑弥呼の墓を、ヤマト説ではどうしても箸墓にしたい京都大学系一派が多いようだが、小林行雄の生前の思考記録には、それはそれは奇妙な言動があったことを諸氏はご存知であろうか?それについては別記する。まさしくヤマト至上主義の権化であった。その流れの中で正直な学徒たちの疑問や提起がいかに頭角を表せなかったかという考古学史をまず知っておくべきである。

考古学者に限らず、科学者・学者が実は、かなりの割合でいい加減で自己中心的な人格破壊者が多いかは、3・11大震災以後、まったく如実に証明されたのである。
言いたくはないが、ほとんどの議員がそうであるように、ほとんどの学者が、実はこの世に必要のない学問で口に糊しているのではないか?と国民の多くが考え始めている。

金印・銀印が出てくる可能性は何パーセントあるのだろうか?

もし盗掘ではなく、ある組織によって伝世されているとすれば、出てくる可能性はゼロである。


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