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古墳時代と言えば前方後円墳。
そういう常識を覆す洞穴に埋葬された人々。
「洞穴古墳」と言っていいかどうか?しかし間違いなく古墳時代。
続々と出てきた。
どれも丸木舟や準構造船に横たわっていた。
海蝕崖・・・出雲なら加賀の潜戸だ。

◆東京湾入り口の房総半島と三浦半島海岸部
ここには多くの海蝕崖がある。
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その多くに古代人が埋葬された遺跡があった。
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特に大寺山洞穴、鉈切(なたぎり)洞穴の「洞穴葬」は考古学者の古墳時代観を一変させるに足るおびただしい石室を持っていた。
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遺骨は舟形木棺に置かれていた。
しかしこの船形木棺は畿内や九州やの前方後円墳の被葬者が眠っていたような木棺として造られた柩ではなく、実用丸木舟を使ったあとの舟そのものだった。おそらく彼らが使用し、被葬者自身の愛用品だったのかも知れない。このような埋葬形態は古墳からは出てこない。

なにより洞穴をそのまま応用し、壁際にそって転々と百年間以上の期間の間になくなった一族郎党が仲良く並べられていた。まるで中国の長江文明時代の懸崖葬(けんがいそう→)のようである。

長江沿線では高い崖の洞穴やクレバスに船の形でふたのある柩を突っ込み、落ちないようにひもをかけておくという埋葬形態がある。高い崖ではないが海のそばにできた自然の海食崖に日本のものは存在する。

三浦半島の雨崎洞穴では舟形石室に船形木棺が置かれ、表面には朱が塗ってあった。木棺は刳り貫かれた丸木舟だった。おそらく特注の新品であったろう。黄土は全面に塗られたが、なぜか上縁部だけは白く塗られていた。頭部が置かれた方向だろうか?


◆和歌山県田辺市
熊野の海岸線には多数の海蝕崖の洞穴があるが、その多くが田辺市に集中する。
その中に磯間岩陰(いそまいわかげ)遺跡はある。

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この中に特別に鳥のアジサシを抱かされた子供の遺体があった。
夭折幼児である。病気か何かで死んだのだろう、親が特に彼にはアジサシを抱かせた。
それはちょうど土井ヶ浜の巫女が鵜を抱いていたことと対応するが、あきらかに霊魂を運ぶ鳥に託した再生・ヨミガエリの呪であろう。


◆島根県猪目洞穴
出雲と言えば佐太の大神が寄り来た加賀の潜戸である。

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猪目洞穴の名前になっている「いのめ」は「いめ」=「夢」であると辰巳和弘は書いている。



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ここの男性には南海産の貴重品であるゴホウラ貝の腕輪(貝輪)が六つもはめられていた。
ゴホウラ貝は特別なものであったらしく、必ず男性(首長クラス)の右腕にはめられてでてくる。
もっともたくさんはめていたのは大分県日田市吹上遺跡の男性の15個である。
貝輪は触れ合って音を出す。それがきっと鎮魂と治世の象徴なのであろう。
音は重要な呪である。
ゴホウラ貝輪を持っていたということは猪目の氏族が南北九州と交易していた証拠となる。


◆前方後円墳だけが古墳時代ではなかった
この事実は史学の畿内中心主義に対する強烈なアンチテーゼになる。
畿内学者は箸墓以来を古墳時代とし、前方後円墳こそが大和朝廷へと連なる中央集権国家建設の象徴であると言い募るのだが、同時代にまったく墳丘を持たないこうした埋葬形態があったということは、決して古墳時代が一元的な世界ではなく、まだまだ畿内による統一は完全ではなかったことの証拠品になる。


◆船に埋葬
これはいわゆる九州に多かった船形木棺や舟形石室の存在を彼らも知っている、しかし大古墳に埋葬された管理者や、装飾横穴墓に埋葬された職能集団ではなかった、つまりそういう政治的集団には属さない小族・・・それも海に深く関わった人々=海人族だったことを思わせる。しかも長江文明人によく似た白水郎で、いずこからか四散してやってきた人々だった可能性すら思わせる。

参考文献 辰巳和弘『他界へ翔る船 「黄泉の国」の考古学』新泉社 2011



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